前述のように、郷土の石高の八八%以上が旗本知行所であった。その知行割りは、ほぼ寛永年中に定まったようである。田代村沿革誌に「寛永十一年十一月、旗下水野要人、大久保宮内少輔正朝采地(さいち)トス」とあり、大津倉村誌にも「寛永十年甲戍年、旗下大久保和泉守(初メ宮内少輔ト称ス)正朝ノ知行所トナリ、是ヨリ子孫相継キ」とある。元禄以降の地方文書(ぢがたもんじょ)を見ても支配関係はほとんど変っていない。同一支配関係が長く続けば、江戸の地頭と知行所百姓の間柄は一見親密となる。江戸初期、旗本が野性味を失わず、財政的にも余裕があったころは、出府した百姓が地頭の屋敷内に泊ったようである。
小榎本前田政之丞家に残された万治元年(一六五八)の覚(おぼえ)に、「惣而村方名主・組頭並ニ百姓、自分用これあり江戸え出候節、屋舗中ニ永々滞留致シ候儀、向後堅ク無用ニ候。名主ハ五日、組頭三日、百姓ハ二日ニ限るべし。右之外滞留仕りまじく候。病気其外拠無(よんどころな)き筋ハ、其節之品ニ依り申付くべく候。」とある。万治元年以前は、百姓が私用で江戸へ出ても、屋敷中へ永々と泊っていたことを示している。そして、宿泊を制限されても、なお何日か泊ることができた。そこには、「おらが殿様」という気分が感じられる。
ところが、幕藩体制が硬直化するに従い、名主が公用で出府しても宿屋に泊るようになり、定宿(じょうやど)ができてきた。地頭と知行所百姓の関係も次第に形式化し、地頭の祝儀、不祝儀には名主が出府してあいさつし、地頭からは僅かばかりの米金の下賜があるといった儀礼的な関係が多くなった。年貢減免を願い出ると、比較的容易に聞き入れてくれる。ところが、御屋敷様入用として、いろいろな名目で金銭を微収されるし借金される。旗本の借金証書が村方にたくさん残っているということは、借りっ放しにされたしるしである。
大名領分が若干あったが、百石、二百石と分散している知行形態は、旗本のそれと変わらない。代官支配所も極めて僅かであるが、そこは、御料(ごりょう)・天領(てんりょう)・蔵入地(くらいりち)などと呼ばれ、幕府の法令、施策がそのまま施行されるので、江戸幕府の地方(ぢがた)支配の実態をさぐる好都合な史料を残している。
旗本や代官は、江戸にいて、その知行所や支配所に顔を出すことはほとんどなかった。郷土には、旗本が陣屋を構えた跡も残っていない。大津倉に代官屋敷といわれる場所があるが、ごく初期の地(ぢ)代官の屋敷跡であろう。地方の大地主や名望家が、領主から年貢収納その他の地方支配を委任された場合、これを地代官といった。郷土史料からは、地代官の存在を確認できたものはない。旗本は家来が、代官は輩下の手付(てつけ)・手代(てだい)が村々と接触していたが、回村することは稀で、その実務はほとんど村役人に任せられていた。小高の旗本や、知行所が細かく分散していた旗本は、年貢収納を代官所に委託することもあったが、郷土ではその例を発見できなかった。
一般的に、旗本や代官は地方に警察力をもたず、治安維持については無力であった。代官は、単なる収税吏としての性格が強かった。幕末、治安維持のため関東取締出役(とりしまりしゅつやく)が設置され、幕領・大名領(水戸藩領を除く)旗本領を問わず、関八州の治安維持にあたったのは、代官や領主たちの警察力不足に代るものであった。