3 名主給米

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 領主は、名主に責任を負わせて貢租を徴収していたので、代償として、米を給与した。名主給米(きゅうまい)は、大高の村は多く、小高の村は少ないといわれている。地方凡例録には、『村高百石より百五十石まで給米二俵、二百石より三百石まで給米四俵、四百石より六百石まで給米五俵、七百石より千石まで給米八俵、千二百石より千五百石まで給米十俵、右より大高の村は、これに準じ相増すべき旨先年命ぜられたり』とあるが、必ずしも、絶対的基準となっていない。金谷村大久保氏二五〇石高の名主給米が二俵であるのに、小榎本村加藤氏一三〇石高の名主給米は三俵である。郷土の場合、高の大小に関係なく給米二俵というのが多い。
 名主給米は、固定したものでなく加増もあった。篠網(ママ)村名主三郎兵衛は、戊子二月(文政一一年と推定)一俵の加増を受けている。
 名主給米は、年貢の中から差引かれるようになっているが、小前百姓から別段に取立てたものである。年貢割付けのとき、給米分も含んで課した。
 名主の手当としては、給米の外に年貢の免除または高役の免除などあるが、郷土の史料からはそのような事例は発見されない。年貢皆済目録に、名主給米差引きのことが書かれていないものもある。宝暦一一年の針ケ谷村代官支配所(三七石余 家数七軒)の名主は給米を受けていない。村明細帳に「名主給、組頭給、定使(じょうづかい)、船頭、樋守(ひもり)給等御座無く候」と書かれている。私領名主の兼務であったのかもしれない。あるいは、高役免除であったとも考えられる。
 この外、江戸時代初期には、名主が村民を私用に使えるような特典もあったが、後に禁止された。

名主給米加増の覚
(刑部 内藤正雄家文書写)