名主給米は、固定したものでなく加増もあった。篠網(ママ)村名主三郎兵衛は、戊子二月(文政一一年と推定)一俵の加増を受けている。
名主給米は、年貢の中から差引かれるようになっているが、小前百姓から別段に取立てたものである。年貢割付けのとき、給米分も含んで課した。
名主の手当としては、給米の外に年貢の免除または高役の免除などあるが、郷土の史料からはそのような事例は発見されない。年貢皆済目録に、名主給米差引きのことが書かれていないものもある。宝暦一一年の針ケ谷村代官支配所(三七石余 家数七軒)の名主は給米を受けていない。村明細帳に「名主給、組頭給、定使(じょうづかい)、船頭、樋守(ひもり)給等御座無く候」と書かれている。私領名主の兼務であったのかもしれない。あるいは、高役免除であったとも考えられる。
この外、江戸時代初期には、名主が村民を私用に使えるような特典もあったが、後に禁止された。
名主給米加増の覚
(刑部 内藤正雄家文書写)