田畑はあるが民家のない地域を給された旗本は、他給の名主に年貢徴収の仕事を依頼した。自給の百姓がいても、文盲ばかりの場合も同様である。このような兼任名主のことを持添名主といった。
刑部村は、分割支配の極端なところで、中には一〇石・二〇石の零細な采地(さいち)をもつ旗本もいた。代官支配所も小高であった。享和期の刑部村の代官支配所は、高八石五斗九合三勺一才で、「御領所民家御座無く候、私領持添ニ御座候」というわけであった。大名領、旗本領をすべて私領という。耕作は、私領の百姓が出作(でさく)しているが、御領の百姓はいない。そこで旗本に属する名主に兼務させたのである。舟木村の地頭曲淵氏の知行所は、高二四石余りである。自給の百姓はいたが名主ひとりを置くほどの石高ではない。そこで市岡給の名主が持添していた。この場合、市岡給の名主は、曲淵氏からも幾ばくかの給米を受けていた。