しばしば与頭(くみがしら)と書かれている。元来は、五人組の判頭(はんがしら)の意であった。従って、村役人として位置づけられたのは名主より後代である。古い文書には、名主・年寄と書かれていることが多い。村役人というと、名主・組頭・百姓代を想起するが、同一年代にいっせいに置かれた役儀でない。百姓代が置かれたのは更に後代である。
組頭は、村内の富裕な百姓で読み・書き・そろばんができ、人柄のすぐれた者が本百姓の推薦あるいは入札(いれふだ)によって選ばれた。地頭から形式的に任命されたが、その進退は村民の意志にゆだねられた。
文化一〇年七月、立鳥村組頭長右衛門が病死した。地頭用所から、「後役之儀ハ小前一同申合い、相応の者を申聞くべく候」と、覚(おぼえ)(15)が出ている。立鳥村の組頭は、小前百姓一同の推薦によったのである。
江戸時代後期になると、組頭役を勤めた者が、後に名主になるというケースがしばしばみられる。鴇谷村柴田給の名主交代の動きが、一連の磯野真常家文書によりうかがい知ることができる。この文書には、年号が記入されていないが、他の諸文書から文政・天保期と推測できる。
鴇谷村百姓長右衛門は、卯正月二一日先ず組頭役を仰せつけられた。(16)鴇谷村名主与次右衛門は、亥年三月三日病死した。「名主与次右衛門……(中略)……病気の処養生相叶(かな)わず病死いたし候由是又(これまた)承知致し候 扨々(さてさて)気の毒千万の事ニなり候」と悔みを述べ、後役のことが達せられるまで、組頭共四人で相談の上役儀を勤めるよう、地頭用所で指示している。だれが名主となったか記録はないが、組頭長右衛門が名主となったようである。年代不明の辰二月、地頭用所から鴇谷村名主長右衛門の退役願を受理し、当年中は給米三俵を与える旨の覚が出されている。退役理由は老衰であった。その後、長右衛門家から名主が出たような文書は見つからない。百姓から組頭となり名主となるが、その子は名主役を世襲しない、という在り方は、幕末に至ると多かった。
一般的に組頭給米は無かったといわれているが、郷土の場合はほとんど給米を与えられている。天保一二年の高山村年貢皆済目録(17)を見ると、名主給米五俵、組頭給米二俵半となっている。組頭は数人いるから、ひとり当たりの取分は名主と比べると少ない。名主不在の際は、組頭名で文書が出されるが、その責任において、組頭と名主では相当の開きがあったようである。
郷土の村々の組頭の数は、二人ないし五人であるが、単なる名主の補佐役である場合と、村内をいくつかに分けて、各組ごとに置く場合とがあった。現在の大きな区に置かれている班長のような役目をもっていたのである。