百姓代が置かれたのは、組頭より更に後代のように思える。百姓代の役務は、『名主・組頭へ百姓よりの目附(めつけ)なり、村入用(むらにゅうよう)其外諸割賦物(わりふもの)等の節は立合(たちあい)……云々』と地方凡例録に述べてある。小前惣百姓の代表として村行政を監視する役目であった。このような職制は、小前百姓の発言力が強くなってから設けられたものである。
百姓代は、大高持の百姓の中から普通一人、時には三人ぐらいあてられた。そして、年貢や諸役、村入用などの割付けのとき立会い、大高持ちの百姓が承知した上は、小高の者は異存なしとするひとつのかくれみのに使われた傾向がある。真の監視者でなく、総百姓の代表が立会ったのだから異議はあるまい、という形式をつくったように邪推できる。村民代表であるから給米など与えられなかったが、地頭からの文書に名主・組頭・百姓代と宛名され、村政に責任を負わされる一面があったことは、それが本当の総百姓の利益代表でないことを物語っている。