[郷土の村々]

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 桜谷の仲村多治見家に『為永春水 上総国長柄郡泉詣(いずみもうで)御道之記』という一冊が蔵されている(研究篇参照)。また、無題であるが内容が全く同じ写本が飯繩寺に蔵されてあり、末尾に南総長柄郡鴇谷住磯野真常記、東都為永春水編削、門人蕙積義路謹書とある。今の夷隅郡岬町泉の飯繩寺は、江戸時代「参詣の老若男女は蟻(あり)の渡るにひとしく、山門を過れば大幟(し)小幟(し)数品(ほん)ありて、風のまに/\翻(ひるがえ)る」という賑かさであった。春水の紀行ということから、文政か天保期と解される。この道中記は、往路・復路とも長柄町を通ったように記されているので、近世郷土の交通路や情景をうかがうことができる。
 「七曲(ななまがり)の坂を下りて刑部天王の宮居を拝し、真言一派月輪寺、諏訪大宮は梵天帝釈(ぼんてんたいしゃく)天王を祭り、鴇谷天王森の社八幡宮、真言宗杉野山日輪寺下馬札を右に見なし、犬飼明神・箱根権現ここにて案内を雇い大悲山に詣で侍(はべ)る」
 刑部・針ケ谷・鴇谷の寺社が道順に記され、更に笠森観音に向かっている。これがかつての江戸街道で、昔の道が迂回していたことを語っている。往路は、長南・永吉・三ケ谷・一宮を通って泉に至り、復路は本納から再び長柄町の北東部を歩く。
 「飯尾不動尊・鐘が滝、道脇寺薬師安念(あんねん)和尚の塚石は半(なかば)埋れて緑苔(りょくたい)生じ、大館判官(おおだてはんがん)が城郭を搆へし御児屋台(みこやだい)、武(たけ)之峯に登り東北を眺むれば……中略……風景実に千金換がたき瞻望(せんぼう)なり。……中略……長柄山大蔵(ママ)寺は禅家之御寺、下馬札右に見やり……後略」
 武が峯(権現森)で眺めると、銚子の犬房(ママ)から常陸(ひたち)まで見えるように書いているが、これは誇大である。この一文は、地方の文学愛好者が綴って春水の編削を求めたものであって、化政期より、農村の富裕な地主が文学に憧れた風潮の一端である。ともあれ、この紀行文に描写されている神社・仏閣・伝承・風景が、今とほとんど変っていないことに驚かされる。この美しい環境の中で、われわれの祖先は忍従のうちにもささやかな楽しみを見出して幾世代も生き続けて来た。長柄町史では、先祖の生活を少しでも掘起こしてみたい。
 江戸時代の基本的生活圏は村であった。ここに一村ごとの概況を述べてみるが、二七か村について詳述することは困難である。豊富な史料が発見された村もあれば、全然史料の無い村もある。従って、記述に長短のあることを了承されたい。