1刑部(おさかべ)村

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 刑部村の成立は古く、近郷の中心地であった。吉田東伍氏の『大日本地名辞書』に次のように述べられている。
「刑部郷(ごう) 和名抄(20)長柄郡刑部郷、今長南の西北二里に刑部存すれば、其郷域は水上・日吉の二村にわたり、市原郡に接したり」と。古代において、刑部郷とは現在の水上・日吉地域を指したのである。また、地理志料に『万葉集 上総国上丁刑部直三野(じょうていおさかべのあたいみぬ) 刑部直千国(ちくに)。東大寺宝亀四年文書 上総国市原郡人 刑部荒人 刑部稲麻呂。小金本土寺建治四年鐘識 大工上総国刑部郡大中臣兼守(おおなかとみのかねもり) 当時私称郡也。文禄三年 笠森・小榎本水帳 刑部郷ニ作ル。天正十八年笠森寺制札刑部荘ニ作ル』と記されている。

刑部の象徴高星山(浅間山)

 この中で時代的に古いのは、万葉集に出てくる刑部直千国(おさかべのあたいちくに)と刑部直三野(みぬ)であるが、千国は市原郡の人らしく、天平勝宝七年(七五五)二月に筑紫に遣わされた防人であるが、このうち三野は、その住所が明らかでないが、市原出身の可能性が強い。刑部という地名は、古代において刑部という部民(べのたみ)が居住していたことから地名となったのであって、市原市方面に部民は多く居住していたが、その中心が、現在の刑部であろうと推測出来る。刑部の古代文化及び地名の起原については第一章の「古代の長柄」を参照されたい。
 小金(現松戸市)本土寺の建治四年(一二七八)の鐘銘に出てくる大中臣兼守は、諸先学の研究により、まがうことなく刑部郷を本貫とする鋳物師である。しかし、これも現在のせまい地名の刑部でなく、現在の針ケ谷が本貫であった。ともあれ刑部の成立年代は古く、かつての刑部郷の範囲は旧日吉水上両村に及んでいたらしい。
 下って近世ともなると、人口過密となり、やや発展性に欠けるうらみはあるが、それでも近郷の中心であり、組合の親村であり、長南宿と磯ケ谷村の中継場(なかつきば)であった。ここには、他村に余りみられない医師や職人も住んでいた。
 刑部村は、篠網(しのあみ)・辺田(へた)・月川(つきがわ)・三沢(みさわ)・稲塚(いなづか)・吹谷(ふきや)の六谷(やつ)にわかれている。このため、元禄の石高調べで誤った記録が残されたことは、郷土の概要の村高の項で述べたとおりである。寛政五年の上総国村高帳には、高八五八石一斗二升八合、家数一七八軒と記録されている。天保五年の改めでも高八五八石余りである。
 刑部村の支配の特徴は、支配者数が多いことである。寛政五年には、代官支配所一、旗本知行所四、同心給知一となっている。ところが、天保五年(一八三四)の差出(さしだし)では、代官支配所一、同心給知一、旗本知行所九、それに慈眼寺除地一と細分されている。しかも、一〇石から三〇石ぐらいまでが大部分で、まとまっているのは同心給知の六一八石余と旗本布施氏知行の一〇九石余だけである。同心や与力の給地は、役職に対する給付であり個人的支配関係はない。このようなわけで、村としてのまとまりが悪いところもあった。刑部区六谷(やつ)の独立性が強いのは、江戸時代の細分支配にも一因がありそうである。村内の谷と谷とが対立して山論を展開したこともあるが、他村ではあまり例をみないことである。
 享和二年(一八〇二)二月、刑部村名主久右衛門、年寄久太夫、百姓代七兵衛の名で、竹垣三右衛門代官所へ差出した「村高・村柄等書上帳」(21)から、当時の村況をさぐってみたい。
 
一 村内御領私領入会(いりあい)ニ御座候。東西拾三町半 南北拾八町半
一 村内嶮岨(けんそ)にて山付きの村ニ御座候。
  大風雨の砌(みぎり) 山崩れ砂押し仕候(つかまつり)。
一 坂三ケ所 往来道普請(おうらいみちぶしん)等御座候。
一 家数百六拾弐軒 男三百五拾人 女三百弐拾人
一 村入用一ケ年三拾貫文程も相懸(あいかかり)申すべく候。
一 商売屋御座無く候。
一 郷蔵(ごうぐら)二ケ所
一 医業の者壱人御座候。
一 諸職人 大工壱人  木挽(こびき)壱人 桶屋壱人  紺屋(こんや)壱人
一 酒造稼(かせぎ)もの御座無く候。

一 やもふ、やもめ、みなし子、廃疾、片輪者(かたわもの)等自ら稼(かせぎ)もならざる者御座無く候。
 
 山村で大風雨の時山崩れが起こるのは、今も昔も変わらない。坂三か所とは、鳥居(とりい)坂、七曲(ななまがり)坂、篠網坂のことであろう。現在の家数は二六〇戸ほどであるから、ふえている。明治以降の分家、昭和二〇年前後の新居住者(太平洋戦争のための疎開者)、最近建てられた県営住宅入居者の数が、離村者を上回ったのである。
 商店や酒造業はなかった。年貢米を入れておく郷倉が二棟あった。医者は代々いたらしく、内藤三郎兵衛の御用留にも、維新前に宗秀という医者が質地出入をした記録が残されている。篠網谷に、「宗秀(そうしゅう)さん」と呼ばれる家があるが、多分この医師の子孫と考えられる。医師や専業の職人が四人もいるのは、近郷では類例のないことである。当時の職人は、多くは農間渡世(とせい)の稼ぎであった。
 職人といえば鋳物(いもの)師についても触れる必要がある。大工上総国刑部郡大中臣兼守(おおなかとみのかねもり)については針ケ谷村の項で述べる。ここでは、近世の鋳物師大野与五右衛門藤原信房について記してみたい。市原市高滝の小幡重康氏は、大和田の光厳寺の鐘銘(22)を筆写しておられた。この鐘は、太平洋戦争中供出されてしまったが、篤学の郷土史家小幡氏のおかげで、貴重な史料が残された。光厳寺旧蔵梵鍾の鋳造年代は、寛文一二年(一六七二)一二月一日、鋳工は、刑部住大野与五右衛門藤原信房である。この鐘銘を頼りに、この人物の実在を確めるため、根気よく史料の探訪を続けるうち、遂に、刑部区吹谷の大野光司家から、「授与之大野与五右衛門藤原信房」と書かれた曼荼羅(まんだら)を発見し、その墓石も確認できた。

元文4年曼荼羅(刑部 大野光司家蔵)

 元文四年(一七三九)九月二五日、日乗から授ったものである。これで、近世にも、刑部に鋳物師がいたことが明らかになった。吹谷からはかなくそ(鋳物のくず)が出土する。中世の鋳物師で有名な刑部郷に、近世に至っても鋳物師が存在したことを示す貴重な史料である。ただ、寛文一二年と元文四年では六七年の隔りがある。従って、光厳寺梵鍾を鋳造した大野与五右衛門と、元文四年のそれは同一人であるか否かはわからない。
 大野姓の鋳物師には、鎌倉の大仏を鋳た大野五郎右衛門がいる。上総国の住人とあるので、あちこちから出身地が名乗り出ているが、鎌倉時代の著名なる鋳物師大野五郎右衛門もその祖先をたどると刑部郷出身の鋳物師と考うべきようである。
 刑部天王宮は、刑部・立鳥・鴇谷三か村の鎮守であった。祭礼の日には、神輿が鴇谷村字久保田の天王森へ渡御した。祭礼の盛大さは近郷で比類ないもので、屋台店が軒を連ね、大勢の人々が参集した。明治元年刑部一村の鎮守となった。この社名は旧名が神仏混然としたもので、新政府により禁止せられたので新らたに命名したものである。

八重垣刑部神社

 寺は、月河山月輪寺、荒戸山勝蔵寺、大悲山慈眼寺、天明山宝珠寺(以上真言宗)竜額山雲頂院(臨済宗)長円山妙伝寺(日蓮宗)の六寺であったが、現在慈眼寺は建物も残っていない。
 『上総国町村誌』(23)によれば、明治二二年の戸数一九七、人口一、〇九四、牛一、馬四五、荷車一、人力車一〇、段別三〇七町一段二畝一八歩となっている。