2田代村

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 郷土の村々の成立は、海岸の白子町や長生村と比べて古いことは明らかであるが、成立年代の明確な村はひとつもない。ただ、田代村については、その起源を証する史料がある。
 『朝野群載』(24)によれば、藻原荘(もはらのしょう)と田代荘は、藤原朝臣黒麿の荘園であったという。黒麿は、宝亀八年(七七七)上総守に任ぜられているので、この間に開発したものと考えられる。開田面積は三〇町歩ほどであった。黒麿の曽孫菅根は、父祖の遺命により藻原荘と田代荘を藤原氏の氏寺である奈良の興福寺に施入(せにゅう)した。寛平二年(八九〇)八月のことである。
 下って、江戸時代の概要は次のとおりである。明治三六年の水上村沿革誌資料によれば、寛永一一年(一六三四)一一月、旗本水野要人・大久保宮内少輔正朝の采地となった。この支配関係は、幕府滅亡まで変わらない。同資料によると、慶安三年(一六五〇)および、宝永四年(一七〇七)の検地帳があるはずであるが、今回の採訪では、発見されなかった。元禄郷帳の村高一三四石四斗一升五合、寛政五年の村高帳では、家数三二軒、高一五三石二斗五升八合、地頭水野若狹守・大久保八郎左衛門となっている。明治初年に編さんされた旧高旧領取調帳によれば、維新前の村高一五六石七斗一升五合、内水野要人知行一三一石二斗七合、大久保八郎左衛門知行二二石五合、本光寺除地三石五斗三合であった。
 明治二二年刊行の『上総国町村誌』には、戸数二七、人口一六二、馬七、段別六一町四反六畝三歩、氏神稲荷神社、寺稲荷山本光寺(曹洞宗)医王山延命寺(天台宗)明福寺(真言宗)の三寺とある。