大津倉村の創始年代は不明である。大津倉村誌によれば、「文安年間守護代武田信長ノ庁南ヲ治スルヤ其管轄ニ属シ、爾後里見氏ノ所領トナル」とある。更に「徳川氏ニ至リ諸侯ノ封邑ニ帰セシモ人名年月詳ナラズ、寛永十一甲戌年旗下大久保和泉守(初メ宮内少輔ト称ス)正朝ノ知行所トナリ、是ヨリ子孫相継キ……後略」とある。田代村といっしょに大久保氏の知行所となったことがわかる。大津倉は古くは大津蔵と書かれていた。『上総国町村誌』に「慶安三年(一六五〇)八月水帳、大津蔵ニ作ル、後改ム」とある。元禄一五年の上総国郷帳にも、高四〇〇石、大津蔵村とあるが、寛政五年の村高帳には大津倉村となっているので、この間に改められたものであろう。寛政期の村高四九六石五斗六升四合九勺五才、家数七六軒、全村大久保八郎左衛門の知行所であった。
旧高旧領取調帳によれば、幕末の村高四九八石八斗八升五合二勺、内正善寺除地一石三斗四升四合で、他は旗本大久保八郎左衛門の一給である。大久保氏の支配は幕末まで続いた。
津と倉(蔵)は、貨物の集散に関係ある語であるが、村名の起源は明らかでない。
明治二二年に刊行された『上総国町村誌』によれば、当時の戸数七四、人口三五三、牛一、馬二二、段別一二九町六段二畝二九歩、氏神、大国主神社、寺、清暁院正善寺、覚樹山本照寺(以上日蓮宗)神甲山泉光院(真言宗)とある。寺は、現在全部廃寺となっている。
大国主神社