4金谷村

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 金谷または金屋と称する地名は、かつて鋳物師の居住地であったことを示す場合が多い。隣接する針ケ谷と刑部区吹谷とともに中世の鋳工の居住地であったようである。金谷や吹谷からは、今でも鉱滓(かなくそ)が掘り出されるところが多い。
 江戸時代の史料はあまり残されていない。元禄の郷帳には、村高二五二石、寛政五年の村高帳には、家数四一軒、高二五〇石、大久保八郎左衛門知行所となっている。旧高旧領取調帳では、高二八六石にふえているが、支配者は変っていない。大久保八郎左衛門は、大津倉村・金谷村などを単独支配し、水上地区だけでも千石近い知行所をもっていた。
 上総国町村誌(明治二二年刊)には、戸数三四、人口二四二、馬一五、段別六二町六段六畝二六歩、氏神八幡神社、寺は、普陀楽山水月寺(臨済宗)と出ている。
 この上総国町村誌には、畠山伝説が記されている。畑山谷(はたやまやつ)に小丘があって、中古畠山重忠が居住していたと伝え、鴇谷との境界にあたる山頂に城址がある。畑山(はたやま)の屋号をもつ石井家には、重忠の遺物といわれる兵法書と弓術許状および重忠の画像が蔵されている。云々……とある。同家にあったという伝承があるが、いまだ発見されない。
 金谷田圃は、広々とした良田であるが、また、名にしおう干損(ひがれ)場でもあった。そのため、刑部村南沢(なんざわ)に大規模な留堰(とめぜき)を作り、ここから手桶(てび)を掘り引水していた。加藤喜之家に蔵された文化・文政期の「南沢留堰新規 建替仕用(たてかえしよう)帳」が、留堰の規模を物語っている。(第三節農業生産・用水の項参照)