7針ケ谷村

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 針ケ谷村には、史料が数多く残されている。宝暦一一年(一七六一)の「針ケ谷村差出明細帳」(26)は、御料名主六郎兵衛、組頭三郎右衛門、百姓代平兵衛の連印で、代官川崎平右衛門役所に提出されたものである。従って、村柄の書き上げは、御料三七石三斗八升八合の内に限定されている場合が多い。例えば「当村家数七軒、人数三九人」といった場合代官支配所のみを指している。「御高札場御座無く候」とあるが、小倉正男家には、正徳二年(一七一二)と天明八年(一七八八)の高札が蔵されているので、高札場は村内のどこかにあったはずである。しかし書き上げられた項目の中には、全村の状況を示すものも多々あるので、その中から宝暦期の村況をさぐってみたい。
 
一、当村は土地(つちじ)五分、砂地五分である。
一、御鷹方(おたかがた)の御用諸役は六地蔵村へ、武士村御伝馬(おてんま)は長柄山村へ差出している。定助郷(じょうすけごう)・大(おお)助郷の人足馬数は年により大小がある。
一、稲刈りは、十月上旬ころ行なう。
一、畑作は、粟・大豆・木わた・麦作など、
一、御年貢米は八幡川岸(がし)まで津出(つだ)しする。道のり四里、船賃は百俵につき三俵ずつ、駄賃は百五十文ずつである。
一、米・雑穀は市場へ出し売買している。暑さ寒さは江戸同様に思われる。
一、男女耕作の間は、男は木・かやを採り、女はいとなみをしている。
一、当村神事祭礼は、八月二十七日と九月十五日である。
一、御国回り御巡見の人足馬は茂原村へ差出している。
一、帯刀の者や浪人はいない。
一、本道(ほんどう)・外療(げりょう)の医師はいない。
一、酒造屋・紺屋・菓子屋・鍛冶(かじ)屋はない。
一、大工・左官・木引(こびき)はいない。
一、当村には前々から遠島・追放・所払(ところばらい)の者はいない。
一、当村には、古城址・名所旧跡などない。
 
 以上は抜粋であるが、単に代官支配所(天領)だけでなく、針ケ谷村全域にあてはまる項目が多いと考える。
 寛政五年(一七九三)の「三給明細帳」(27)は、針ケ谷村の内方鉄五郎代官支配所・大井信濃守知行所・岡部主税知行所の各名主・組頭の連名で、差出された村明細帳であるから、針ケ谷村全域の概況を知ることができる。寛政五年の家数一〇一軒、総人口三五四人、内一七五人は女である。農業人二〇三人とあるが、これは老幼病弱者や僧侶などを除いた実働人員を示すものである。馬は二五匹いるが、その内一六匹は伝馬(てんま)役が勤まらない、と書いてある。伝馬役が勤まらない馬とは、弱馬や女馬である。農耕や荷駄ぐらいには使えたであろうが、馬を飼う目的は厩肥をとることにもあったのであるから、どんな老弱馬でも大切にしたし、また勝手に屠殺することも許されなかった。
 寛政期の支配のありさまは、旗本岡部氏知行二九四石、大井氏知行三二八石九斗、代官支配三七石三斗八升八合である。この支配関係は幕末まで変わらないが、代官支配所は、天明四年ころは飯塚伊兵衛が知行していたものであり、幕末には肥由潤之助に与えられている。御料所は、役高として与えられたり、取りあげられたりするので、支配関係は時々変動した。
 明治七年に至り初芝村を合併した。明治二二年ころ、戸数八八、人口五一一、馬三五、荷車一、段別一九八町七段一畝一三歩であった。氏神は諏訪神社、寺は常住山針谷寺(日蓮宗)朝日山西光寺・針ケ谷山大聖寺(いずれも真言宗)の三寺であった。
 針ケ谷村は、鋳物師広科広嗣で有名である。茂原市藻原寺の『仏堂伽藍(がらん)記』の「追鐘次第事」に「ワニ口(ぐち)事、同卅日奉納鋳師両大工也、刑部郷内、度解(とけ)郡内、鐘楼ノ斧初十一月五日柱石スヘ、同廿日柱立、同廿二日廿三日同十二月五日フク也、鐘ニ彫付候刑部郡内針ケ谷郷住人広科広嗣(ひろしなひろつぐ)・土解郡堀之内郷住人法名沙弥」とある。これは、貞和二年(一三四六)の記録である。藻原寺鰐口(わにぐち)の制作者は、針ケ谷の広科広嗣である。また、鍾を鋳造したのも広科氏であろう。
 広科氏は、鎌倉時代から優秀な鋳物師として栄えてきた。長柄山胎蔵寺(眼蔵寺)の房総最古の梵鐘「乳無し鐘」は、弘長四年(一二六四)三月、広階(ひろしな)重永の鋳たものである。広階の刻銘を持つ鐘は、下総国分寺、建長八年(一二五六)広階重守、武射郡真行寺文永三年(一二六六)広階重長などが、記録により知られ、みな同族であると見られている。広階(科)氏は、刑部村で述べた、大中臣兼守(おおなかとみのかねもり)とも何らかの関係があり、中世における有名な鋳物師の一人であったが、ともにその子孫は他に移ったらしく、現在はこの地には全く伝承がない。