9立鳥村

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 元禄郷帳では村高三四五石七斗三升三合となっている。宝暦元年(一七五一)の、立鳥村明細差出帳(28)によれば、高三五三石四斗五升三合、内高二〇八石土屋美濃守知行、内高一二六石鈴木三郎九郎知行、内一九石四斗五升三合曲淵豊後守知行、家数五一軒、人数三四〇人となっている。曲淵給は、元禄一四年までは代官支配所であった。宝暦期には、大工二人、鍛冶屋一人もいた。
 寛政五年の村高帳には、高三五六石三斗九升七合一勺四才、家数四九軒とあり、村高は微増しているが家数は二軒減っている。支配関係は幕末まで変わらない。

 天保七年(一八三六)一〇月、立鳥村では村柄、の明細書を代官所に差出した。このときは、御料・私領を問わずいっせいに村明細書の提出を命ぜられたとみえ、全く同形式の村差出が他村からもいくつか発見された。簡単であるから全文を掲げてみる。
 
 天保七申(さる)年十月
   御尋之ケ条(おたずねのかじょう)御答書(29) 控
       上総国長柄郡立鳥村
          土屋三郎右衛門
          鈴木重四郎 知行所
          曲淵主馬
            上総国長柄郡立鳥村
一 高三百五拾弐石
一 古城跡        御座無(ござな)く候
一 御朱印寺社領     御座無く候
一 除地(じょち) 大地寺社    御座無く候
一 小川砂川   但板橋三ケ所
    但一村持自普請(じふしん)ニ御座候
一 村名之儀往古(おうこ)より立鳥村と唱(とな)え申し候
一 当村之儀往古より壱ケ村ニて相分れ候儀御座無く候
一 当村之儀往古より他村枝郷(えだごう)ニてハ御座無く候 当村之枝郷も御座無く候
一 当村之儀往古より馬継場(うまつぎば)ニてハ御座無く候
一 当村之儀前々より町場市場ニてハ御座無く候
一 当村之内前々より陣屋御座無く候
一 当村地内往来之儀往古より居村中往来(なかおうらい)ニて前々之通り道筋相替(みちすじあいかわ)り候場所御座無く候
一 元禄度以来居村住替り候儀并ニ一村立ち候新田等御座無く候
右ハ此度御国絵図御取調(おとりしらべ)ニ御出役なされ御糺(おただし)ニて取調候所書面之通りニ御座候、右之外元禄度以来相替り候儀御座無く候、これに依り村役人連印を以て此段申上候以上
        土屋三郎右衛門知行所
            百姓代 長右衛門
天保七申年七月    組頭 長左衛門
           名主 久右衛門
       鈴木重四郎 知行所
           百姓代 平治郎
           組頭 政吉
           名主 伊左衛門
       曲淵  主馬 知行所
           百姓代 嘉七
森 覚蔵様御手附   名主 [ ](吉か)右衛門
    秋山銓之助殿

 
 この書上げで見る限り、きわめて特色や変化のない村といえる。
 明治二二年の上総国町村誌には、戸数五九、人口三四一、馬二五、人力車三〇、段別一〇二町二反八畝一一歩、寺星谷山感応寺、汲井山三橋寺、立鳥山妙竜寺、いずれも日蓮宗と出ている。

立鳥村明細差出帳
(大野弘司家所蔵)