元禄一五年の上総国郷帳、寛政五年の上総国村高帳とも二六二石一升四合となっているが、維新前の支配関係を示す旧高旧領取調帳では、村高三三六石三斗八升六合となっている。この間七四石ほど増しているのであるが、新田開発史料も発見できず、口碑による新田開発の話も聞かない。安永四年の日光社参の触当にも、高三三五石一斗二升一合と記されているので、元禄・寛政の記録が誤りであろう。
寛政五年の家数七四軒、旗本伊沢氏の一給である。
明治二二年の『上総国町村誌』によると、戸数七一、人口四一一、馬一九、段別八九町四畝二歩、氏神春日神社、寺妙眼山鏡蔵寺、妙徳山城徳寺、ともに日蓮宗、大聖山円覚寺天台宗となっている。円覚寺は明治初年徳増校の校舎として使われた。
春日大明神
正徳3年村中の勧化により奉納