元禄郷帳には永留村と書かれ、村高一八七石四斗一升、地頭は柴田氏で幕府滅亡まで変わらない。地元史料には長留村と書かれていることが多い。江戸時代、針ケ谷村泉谷から農業用水を引いていたが、この水は、現在の日吉小学校の前にためられた。県道から日吉小学校にはいる通路が堤防となっていて、一般にこの辺を「つばみ」と称していた。今でも、その付近にある商店を「つばみの店」と呼ぶ古老がいる。つばむ、とは、水が流れ寄せて水かさが増した状態を示すことばである。季節的貯水池となっていたことから、古くは長留村と称されたものであろう。
寛政五年の家数二五軒、明治二二年の上総国町村誌には、戸数二三、人口一三八、馬一〇、段別三二町三反八畝二九歩、氏神春日神社、寺延命山東福寺(天台宗)となっている。