榎本村には、榎本城(明城)の跡があると伝えられている。『長生郡郷土誌』に、『里見記に永禄七年(一五六四)の国府台戦後榎本城が落ちた』と記されている。榎本区字本合が、その城址といわれている。国府台合戦後落城した、ということから、里見氏に属する小城があったのかもしれない。一説には、千代丸榎本之助豊俊の居城といわれているが、確証となる史料は発見されない。旧真福寺址からは、宋(日本の鎌倉時代)の青磁・白磁の破片が発見され、その本尊であったと伝えられる阿弥陀仏座像(現長栄寺)は平安末期の木像でこの村の古く開かれた地であることを語っている。
元禄一五年の村高四二一石二升二合で、維新期まで増減がない。寛政五年の家数五四軒、旗本安藤織部の知行所であった。村名は、しばしば江本あるいは江之本と書かれている。古く繩文期には海がこのあたりまで入って来ていたので、入江のほとりという意味からこの地名が生じたのであろう。
明治二二年の上総国町村誌には、戸数五二、人口二九五、馬一七、段別八五町七段六畝二二歩、氏神二ノ宮神社、寺光妙山真福寺、福寿山長栄寺いずれも天台宗、妙泉山沽通寺日蓮宗と記されている。
榎本・二ノ宮神社