19山根村

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 『上総国町村誌』に「中古二宮荘ト称シ、元禄ノ頃枝郷(えだごう)新田村アリ」と述べている。長柄地区の下郷(しもごう)(山根・千代丸・力丸・国府里・味庄・舟木)は、中古二宮荘に属していたようである。元禄郷帳に、村高九五八石六斗九升九合、枝郷(えだごう)一四石三斗七升とある。道脇寺のことか、寛政七年の猪鹿狩の記録(31)に、道脇寺新田とある。道脇寺開発の年代は不明であるが、相当後代まで新田と称されていたことがわかる。もし、この枝郷が道脇寺を指しているとすると、元禄期には、まだ高一四石余りの小さな枝郷であったことになる。寛政五年の村高帳では既に枝郷として区別されず、村高九七六石八斗一升一合、家数七九軒となっている。石高からみれば郷土最大の村である。その上、家数が比較的少ないので一軒平均一二石以上の裕福な村でもあった。
 維新前の石高九八〇石八斗九升五合五勺二才、内吉井藩領(松平氏)二一一石五斗三升九合、水野伯耆守知行二四四石六斗五合四勺、水野太郎知行二五七石一斗八升六合、曲淵鉚三郎知行九七石三斗四升二合七勺二才、戸塚泰之助知行四七石一斗六升であった。このように細分されていたので、村全体に関する政務は年番制をとり、各給の名主が一年交替で村全体の政務に当たっていた。
 『上総国町村誌』には、戸数一一六、人口五七五、馬三九、人力車三、段別二七二町一段六畝一〇歩、氏神日枝神社、春日神社、八幡神社、熊野神社、寺薬師山東光寺、大和久山満蔵寺、御飯山飯尾寺、東野山道脇寺、いずれも日蓮宗である。
 この村には、俚伝や旧跡が多い。北方字梅ノ木に雌雄の滝がある。左を雌滝、右を雄滝という。高さ五丈、幅は雌滝六尺、雄滝一丈二尺とあるが現況は実測できなかった。合流して真名川に流れている。
 字飯尾には飯尾不動堂がある。不動尊像の胎内には梵字(ぼんじ)(不動の種子)を書いた一巻が蔵されている。堂は、文化一〇年二月の建立で、飯尾山二〇世不軽院日良、旦頭新左衛門の名が刻まれている。竜の彫刻は、名工といわれた房州長狹郡下打墨村住武志伊八良信由の作で千田の称念寺にあるものと並称される見事なものである。
 伝承には色々なものがある。鼠坂は、日本武尊が橘姫を追懐して寝に就かず、故に初め「不寝見(ねずみ)坂」という。後転じて鼠坂となったとか、長柄小学校付近の安念和尚の塚の物語とか、道脇寺の「百坊の犬」の言い伝えとかである。広大な寺域と伽藍を誇った道脇寺が、大山崩れのため一瞬にして埋没したという言い伝えは特に調査してみる必要がある。明治二五年一二月一五日、長柄小学校新築工事地均(ぢなら)しのためここを発掘したら、支那古銭一八〇〇枚が出土し、これを長柄町役場に保存した、と『長柄村郷土誌』(32)に述べている。道脇寺の古刹として著名であったこと、その旧蔵書が各地にあることについては前章で述べている。
 この外、大館判官が城郭を構えたという御小屋台城跡の伝説もある。「飯尾氏系図」によれば同氏の古城址で、大館判官説は江戸時代の浄瑠璃から出たのではないかと推測せられている。かつての飯尾の繁栄については中世篇でふれている。

御小屋台(上) 飯尾寺(下)