24山之郷村

205 ~ 208 / 699ページ
 成島孝太郎家に所蔵されていた寛永八年(一六三一)から十数年にわたる年貢割付状によると、千葉領山野郷村と称されていた。慶安三年(一六五〇)の割付状には、「佐倉領千葉組山之郷村寅御物成(おものなり)可納割付之事」とも書かれている。台郷に上ると、中世における支配関係は、下郷と異なっていたようである。寛永八年の村高一三六石三斗九升四合、正保四年(一六四七)には一六二石三斗五合と二六石程ふえている。

千葉領とある年貢割付状(成島孝太郎家)

 以後、元禄郷帳の村高一六三石四斗六升六合、寛政の村高帳一六三石四斗五升六石と大きな変化はない。支配関係は、寛永の頃三浦氏に属し、万治の頃は代官支配所であり、旗本秩父氏の知行所となった年代は明らかでないが、宝永五年(一七〇八)の年貢割付状では秩父久左衛門となっていて、以後支配者は変わらない。
 万治三年(一六六〇)の「山之郷村指出」(34)によれば、同年の百姓家数一四軒、水呑共人数八八人、馬二〇疋となっている。寛政五年の家数一六軒、明治二二年には一九戸になった。広大な地積をもちながら家数は少ない。高をもたない水呑が八八人もいたが、山仕事など多く、労働力は多分に必要としたものであろう。村指出による万治期の村況は次のとおりある。
  一、田方ニは、わかさ稲多く作申候。
  一、畑方ニは、菜・大根・いも・粟を多く作申候。
  一、川よけ普請之場、人足五拾人程、毎年村中ニて志ゆり仕候。
  一、雑穀ハ、他所より買取り用い申候。
  一、馬草所ニて沢山御座候。
  一、千石ニ付壱人ヅヽ、御倉・御台所へ内夫出し申候。
  一、大豆壱俵ニ付永七拾文ニ売上申候。
  一、御宮五ケ所、寺弐ケ寺御座候。

 馬草所で、江戸期を通じ他村から入会っていた。郷土で最も広い村の開発が進んだのは、明治中期以降であり、その推進力となったのは、山之郷の成島国任や上野の横山次郎作であった。大正四年に編まれた『長柄村郷土誌』に、「近年大いに原野・山林を開拓し、他町村及び他府県より移住して農業を営む者逐年増加し、其数実に百有余戸に及ぶ」と述べてある。山之郷を中心とする台郷一円が、明治時代後半から急速に開発されたことを示している。
 『上総国町村誌』には、戸数一九、人口一三一、馬一八、人力車一、段別三八一町二段八畝二六歩、氏神白幡神社と記されている。まだ、江戸時代とほとんど変らぬたたずまいであったが、ゴルフ場の開設、水資源公団による長柄ダムの建設、自然休養村の設置構想で、急激に変貌を遂げつつある。

白幡神社拝殿の竜(房州長狭郡下打墨村住 島村久八郎由勝作)


白幡神社