村名の起源を『上総国町村誌』には次のように述べてある。「俚伝ニ云フ、太古成武村ト称ス、上総権介秀胤故アリ本村ノ路傍ニ六地蔵ヲ造立ス、常ニ信徒多ク群集シ、呼テ六地蔵ト称ス、遂ニ村名トナルト云フ」これは俚伝であるが、この地に多い秀胤伝説の一つであって、全く根拠がないと考えられず、再考すべき伝承であろう。
元禄一五年の上総国郷帳の村高一二〇石五斗一升三合、寛政五年の村高帳には、家数四二軒、高一一二石二升七合となっている。山本平六郎の知行所であった。幕末の村高一一石三斗、地頭は山本隣次郎である。
江戸時代、房総東浜往還(茂原道)の継場であり、明治の初め駅と称していたが明治一四年から村と称するようになった。
明治二二年の戸数三四、人口二四六、馬二五、人力車四〇、段別一五一町六畝一〇歩であった。鉄道開通以前は、長柄山村とともに活気を呈していた。
氏神武峯神社、寺寿厳院西福寺(天台宗)、南方の武峯(権現森)は、標高約一七三メートルで、日本武尊の東征伝説が残されている。武峯(たけがみね)の東方に連なる御小屋台には、千葉秀胤が兵を置いた砦(とりで)があったとか、飯尾豊前守の居城があったとか伝えられている。また、六地蔵の西方山腹には秀胤が神夢によって金を掘ったという金掘址がある。その山上に秀胤の墓碑があったが、現在の位置はもっと下方にさげられている。山根村と同様伝説の多い村であるが、秀胤に関することが特に目立つ。いつのころか、この墓を盗掘したものがあったらしく、中世のかめの破片があって、現在長柄小学校に保存せられている。