26長柄山村

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 元禄郷帳の村高二二四石六斗九升七合、寛政五年の村高二一九石、家数三八軒山本平六郎、筧新太郎、曲淵源太郎氏の知行所であった。江戸時代終末期の支配関係を記録した旧高旧領取調帳によると、村高二三九石五斗六升一合、内山本隣次郎知行九五石一斗二升六合、筧国太郎知行五九石三斗六升五合三勺、曲淵鉚太郎知行六五石六升九合七勺、眼蔵寺領二〇石となっている。
 江戸時代、大多喜往還の継場であり、明治初期には長柄山駅と称していた。上総国町村誌には、明治一四年から村と称するようになった、と書いてある。北方皿木村に接する地域(追分)が開発されたのは明治以降である。『町村誌』には『村人吉本氏等首トシ此ニ移住スルモノ多ク、遂ニ一部落トナル』。とある。あるいは本吉氏の誤記か。明治二二年の戸数一〇九、人口三五一、馬三〇、人力車二一、段別三一五町四反一畝二七歩で、鉄道が開通するまではにぎやかな駅であった。氏神は熊野神社、稲荷神社、寺は長柄山眼蔵寺(臨済宗)一寺である。
 眼蔵寺は字馬込にある。正しくは胎蔵寺であるが、明治初期からか胎を眼と書きあやまったようである。寺伝によれば、三条天皇の、長和二年(一〇一三)の開基で、最初鳴滝寺と号し、後鳥羽天皇の、建久三年(一一九二)源頼朝が胎蔵界曼荼羅を寄付し、寛元年中上総権介秀胤が父祖の冥福を祈って七堂伽藍(がらん)を建立したとき、胎蔵界曼荼羅に擬して胎蔵寺と改めた、という。寺田二〇石を領していたことからも、由緒ある寺であったことがわかる。『大日本地名辞書』に、「今に秀胤夫妻の霊牌あり」とあるが新しいものである。梵鐘には弘長四年三月の銘がある。(中世篇参照)
 かつての古い郡名である長柄も、あるいはこの地を中心として発したのではなかろうか。数千年前の遺跡の発見は、研究篇を参照して頂きたいが、鎌倉期の文献にも長柄の名は出ており、眼蔵寺の歴史は古い。(中世篇参照)

昭和50年カメガ谷(カメンコ台)発掘風景
環境のよい小丘上の畑に繩文式土器の破片が無数に散っている


眼蔵寺(胎蔵寺)