近世農作物の主力をなすものは、いうまでもなく米である。万治三年(一六六〇)の山之郷村指出(1)に、「田方(たかた)には、わかさ稲多く作り申候」とある。宝暦元年(一七五一)の立鳥村明細差出帳(2)には、「稲草一毛作り、甚右衛門こぼれ、伊勢こぼれ、京もち、やなぎもち」とある。享和二年(一八〇二)の刑部村村高村柄等書上帳(3)には、「畑少く田かち、稲作は寄出し、わかさ、京白同様晩稲おもに作り申候」と記されている。このうち「わかさ稲」は、万治期から百数十年にわたり作られていたことがわかる。品種改良は、現代と異なり、困難であった。また、晩稲が多い、とあるが、当時は農業技術の関係で早稲より晩稲の方が収穫が多かった。こぼれ稲も同様で、昭和初期まではこぼれを多く作っていた。運搬途中でこぼれても、なお且多くとれるといわれていたが、やはり脱穀の容易さもかわれたものと考えられる。一毛作りで、裏作の記録はみられない。
畑作にはどのようなものがあったか、万治三年の山之郷村指出には、「畑方ニは、な、大根、いも、粟を多く作り申候」とある。宝暦元年の立鳥村差出明細帳には、「粟、きび、大豆、木綿、冬毛麦」とあり、宝暦一一年の針ケ谷村差出明細帳(4)には、「粟、大豆、木わた、麦作」となっている。木綿は、宝暦期には一般化している。しかし、「薬種草木、茶、たばこ諸作物、或ハ海川肴世間ニ知れ候名物御座無ク候」というありさまで、他国で換金作物として脚光をあびていた桑、楮(こうぞ)、漆(うるし)、藺(い)、茶、染草、たばこなどは作られていない。享和二年の刑部村村高村柄等書上帳にも、「五穀の外作り出しもの、黍(きび)、稗(ひえ)、菜、大根作り申候、村内より生る種物類、薬種ニ成るべき草木、鳥獣、虫、魚、砂石等御座無候」とあり、特産物はひとつも見当たらない。五穀とは、稲、大麦、小麦、大豆、小豆(拾芥抄)のことで、最も一般的な作物であった。
このように、金になる作物は何もない。木綿(きわた)も自給の域を出ないものである。万治三年の山之郷村のいもは、「さといも」のことである。享保期に、青木昆陽が試作して普及に努めた甘諸の記録はひとつもなかった。
長柄地区の台地が大々的に開墾されたのは明治以降であり、郷土には概して畑地は少なかった。江戸時代、茶、楮(こうぞ)、漆(うるし)、桑を四木、麻、藍(あい)、紅花(べにばな)を三草と称し、換金度が高いので領主もこれらの栽培を奨励した。会津の漆、山城の茶、出羽の紅花、阿波の藍などが特に有名である。藩財政再建のため、大名領では積極的な農政が展開されたところもあるが、旗本知行所の多い郷土では、領主からの助成は期待できず、畑地も少なかったので収入の多い作物は何ら開発されていない。
木綿は、生活必需品であるから当然栽培されていたが、上総木綿生産地の一環としての史料は見出せなかった。
この地方で甘蔗(さとうきび)を栽培する者があったのか、文政二年(一八一九)二月、立鳥村の妙立寺・感応寺の二寺では、「甘蔗植付ケ並ニ砂糖制作仕らざる書上」(5)をしている。両寺持分の田畑・境内の面積と石高を書き上げた後に、「右之通り甘蔗植付ケ並ニ砂糖制作仕らず候」と書いてある。さとうきびの栽培が一般化した形跡は認められないので、ぜいたく品として僅かに隠れて栽培した者があったのであろう。この辺で作る者が多かった、というわけでなく、一般的な栽培禁止令に対する書上げであったと考えられる。