2 肥料

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 慶安二年(一六四九)有名な慶安御触書が発布された。その一項に、次のようなものがある。
一、百姓ハ、こへ・はい調(ととの)え置き候儀専一ニ候間、せっちんをひろく作り、雨降り候時分水入らざる様に仕(つかまつ)るべし。それに付、夫婦かけむかいのものニて、馬をも持つ事ならず、こへため申し候もならざるものハ、庭之内ニ三尺に二間程にほり候て、其中へはきため、又ハ道の芝草をけづり入れ、水をながし入れ、作りごえを致し、耕作へ入れ申すべき事。
 江戸時代、糞尿が肥料として重視されていたことがわかる。庭先の「はきだめ」で堆肥を作ることは昭和二〇年代まで行なわれていた。「堀肥揚(ほりごえあ)げ」は農家の年中行事のひとつであり、春耕前に水田へ入れられた。「土肥(つちごえ)」は力がある、と称し、実入りのときに特に肥料効果があるとされていたが、化学肥料の進歩発達とともに用いられなくなった。
 享和二年の刑部村書上帳にも、「肥ハ下肥(しもごえ)・馬ふん・旱草(ほしくさ)等仕(つかまつ)り候」とある。下肥とは糞尿のことである。肥料として最も大量に用いられたのは草や広葉樹の若葉であった。秣場(まぐさば)・秣山・苅敷(かりしき)・草苅場などといわれた入会地や、地頭林・百姓持山から刈り取った下草は、大量に水田へ投下された。やわらかい春草や木の葉は、そのまま水田へ踏み込まれた。踏み込み作業には牛馬が使われたが、小農は田下駄を用いた。椎や樫の枝は、木の葉がついたまま踏み込み、後で枝だけ抜き取った。一反歩当たりの施肥料は二百貫(6)ないし三百貫といわれている。
 夏草は、生草・乾草とも廐(うまや)に入れ、廐肥(きゅうひ)とした。廐は、地面を少し掘下げてつくり、草や藁が馬糞とよく踏み混ぜられるようにしてあった。廐肥は、田にも畑にも用いられた。草木の灰も重要な肥料であった。主に人糞尿と混ぜ合わせ、大豆や麦の種にまぶして用いた。この外、鶏糞・油粕などもあるが、何れも微量で畑作に用いられた。このように、自給できる肥料は最大限に利用している。水風呂の下水(7)まで肥料にしたほどであった。
 ここで問題となるのは干鰯(ほしか)の使用である。大産地九十九里浜をひかえながら、干鰯を肥料として用いた、という記録は少ない。ただ、宝暦元年の立鳥村差出明細帳に、「田方こへ、土・馬屋こへ・ほしか、畑方こへ、馬屋こへ・下水・ほしか」とあり、田畑に施されていたことは明らかである。九十九里の干鰯は、畿内の綿作地帯をはじめ農業先進地域に大量且広範に出荷されていた。筆者は、山武郡九十九町粟生の飯高惣兵衛家文書を披見する機会を得たが、おびただしい干鰯仕切証文の中に、播州西之宮雑賀屋六兵衛とか、志州鳥羽小久保弥三右衛門といった名が散見され、その商圏の広さに驚かされたものである。
 文久二年(一八六二)閏正月、江戸深川蛤(はまぐり)町の安之助なる商人から、武射郡井之内村の藤兵衛へあてた「返り書」が、鴇谷磯野真常家文書の中にあった。どのような理由で磯野家にあるのかわからないが、その要旨は次のようなものである。
 「文久元年三月中、貴殿より我等方へ津出しされた魚〆粕(しめかす)仕切金の内、三十四両が未だ届かないため為替証文を我等方へ返却なされたが、右代金は我等方で必ず取り立てお渡しいたします。」
 という内容である。出荷先から、代金が届かぬためのごたごたであるが、そのことについて、江戸商人安之助が責任をもって回収し、支払うというものである。多分魚〆粕の問屋か仲買人と思われる。このことは、江戸商人の手で大量に買集められた干鰯や〆粕が、換金力の高い畑作地帯に送られていたことを示している。このように、干鰯の商品価値が高まる程、稲作中心の郷土農民にとっては高嶺の花となり、以後幕末まで干鰯を肥料に使ったという記録は発見できなかった。