しかし、個人持山や屋敷木の場合は、伐り払う範囲や程度について、トラブルが起こることがあった。寛政五年(一七九三)九月、小榎村百姓□三郎の屋敷まわりの立木が大きくなり、△平の田地が木陰となった。この年も木陰切が行なわれたが、□三郎は屋敷まわりの木を伐らなかったらしい。そのため、△平と□三郎の間に争いが起ったが、市左衛門が扱いに出て一札(14)が取りかわされた。取替一札とあるが、むしろ強硬な勧告といった内容である。
「此度木陰切これあり、貴殿居屋敷(いやしき)村同様御切り成さるべく候。居屋敷ニ候へば、柵等も村方并(なみ)ニ成され、まわり田地之木陰ニ相成らざる様ニくねかき致さるべく候。以上」くねということばは今でも使われている。近隣に田畑がある場合、屋敷まわりに大木を立てることはタブーであった。低いくねがきにせよ、ということである。
△平の田地と□三郎の屋敷木の因縁は代々続いているらしく、地頭用所でも心痛している。年代不詳であるが、小榎本村地頭加藤伯耆守家来玉置岡右衛門から名主幸右衛門にあてた手紙に、次のような要旨のものがある。「△平の苗代が、□兵衛屋敷の木陰になり困っている、ということを内々聞いている。この度の木陰切でも、小木は伐りとったが、樫の木一本は枝だけ伐り、幹はそのままだという。苗代に支障があっては年貢上納にも響くので、□兵衛屋敷の木を伐りとるよう取りはからってもらいたい。なお、このことについて訴訟など起こらぬよう、じゅうぶん配慮するように。」(15)訴訟にならぬよう隠かに解決することを名主幸右衛門に指示したものである。
木陰切につき取替一札(小榎本 前田政之丞家文書)
結果のほどはわからないが、樫の大木というから長年屋敷内に立っていたものであろう。その屋の住人とすれば愛惜の情禁じがたいものがある。そこで枝おろしをして幹をたすけようとしたのであろう。しかし、御年貢御上納にさしつかえる、という大義明分には勝てなかったと考えられる。