[貢租]

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 江戸時代の租率は、大ざっぱに五公五民とか、六公四民とかいわれている。五公五民とは、収得の五割が租税で、五割が百姓の得分ということである。しかし、この租率は、天領・大名領・旗本知行所で異なるし、地域的にも一定していない。租率が同じでも石盛の算定を高くすれば、貢納高は多くなる。従って、その土地について具体的に考察しなければ真の意味の租率の高低はわからない。
 江戸時代初期の租率は概して低かった。寛永八年の山之郷村高は一三六石三斗九升四合、租率一七%で、貢納高は二三石一斗八升七合であった。寛永一三年には、租率三割を越え、貢納高は四九石九斗一升八合二勺にふえている。正保四年には、村高も一六二石三斗五合となり、年貢高も六八石九斗三升三合と急増している。この年は、日損で二八石余り免租となっているので、干害がなければ九七石程収納することになる。正保期に租率の急騰を見、以後漸次増率されるが、一般的には、後期に至り漸減している。以下、年貢納入の手順に従って述べてみる。

年貢高の変化
(山之郷村年貢割付状 成島孝太郎家蔵)