貢租の基礎をなすものは、検地により定められた石高や反別である。この割付状では、上田一反歩につき五斗五升を年貢として上納することになっている。このように、一反につき何斗何升という決め方は「反取(たんどり)」という。外に「厘取(りんどり)」という方法もある。これは、何分何厘と租率で示されるから面積は必要がない。高一〇〇石で四ツ五分なら、年貢米は四五石納めることになる。
上総国長柄郡立鳥村巳年年貢割付(21)
一、高拾九石四斗五升三合 田畑高辻(たかつじ)
此反別弐町五反五畝弐拾壱歩
此訳(このわ)ケ
上田壱反四畝拾九歩
内三畝拾弐歩 当検見引
残反壱反壱畝七歩 反五斗五升取
此取米六斗壱升七合八勺
中田三反壱畝弐拾壱歩
内壱反拾歩 当検見引
残反弐反壱畝拾壱歩 反五斗取
此取米壱石六升八合三勺
下田六反九畝弐拾壱歩
内弐反八畝歩 当検見引
残反四反壱畝弐拾壱歩反四斗五升取
此取壱石八斗七升六合五勺
上畑弐反六畝七歩 反百三拾文取
此取永三百四拾壱文
中畑弐反六畝壱歩 反百拾文取
此取永弐百八拾六文
下畑七反六畝拾八歩 反百文取
此取永七百六拾六文
屋舗壱反拾七歩 反百五拾文取
此取永百五拾九文
惣取合米三石五斗六升弐合六勺
永壱貫五百五拾弐文
右之通り検見(けみ)之上申付ケ候、大小之百姓名主方江寄合(よりあい)、高下無ク内割(うちわり)致シ、霜月廿日以前、急度皆済(きっとかいさい)致すべき者也
正徳三年巳十月印 山崎与一右衛門印
加藤武左衛門印
飯島善左衛門印
城所伊平次印
立鳥村
名主
百姓
一、高拾九石四斗五升三合 田畑高辻(たかつじ)
此反別弐町五反五畝弐拾壱歩
此訳(このわ)ケ
上田壱反四畝拾九歩
内三畝拾弐歩 当検見引
残反壱反壱畝七歩 反五斗五升取
此取米六斗壱升七合八勺
中田三反壱畝弐拾壱歩
内壱反拾歩 当検見引
残反弐反壱畝拾壱歩 反五斗取
此取米壱石六升八合三勺
下田六反九畝弐拾壱歩
内弐反八畝歩 当検見引
残反四反壱畝弐拾壱歩反四斗五升取
此取壱石八斗七升六合五勺
上畑弐反六畝七歩 反百三拾文取
此取永三百四拾壱文
中畑弐反六畝壱歩 反百拾文取
此取永弐百八拾六文
下畑七反六畝拾八歩 反百文取
此取永七百六拾六文
屋舗壱反拾七歩 反百五拾文取
此取永百五拾九文
惣取合米三石五斗六升弐合六勺
永壱貫五百五拾弐文
右之通り検見(けみ)之上申付ケ候、大小之百姓名主方江寄合(よりあい)、高下無ク内割(うちわり)致シ、霜月廿日以前、急度皆済(きっとかいさい)致すべき者也
正徳三年巳十月印 山崎与一右衛門印
加藤武左衛門印
飯島善左衛門印
城所伊平次印
立鳥村
名主
百姓
この年は不作のため検見を受けている。「内三畝拾弐歩 当検見引(とうけみびき)」とは、上田一反四畝一九歩の内三畝一二歩は年貢を免除したという意味である。この検見の方法は、「畝引検見(せびきけみ)」といって、米や租率で引くのでなく面積で差引くものである。一反歩当たりの標準的収穫高は「盛(もり)」といって、あらかじめ定められている。坪刈りによって収穫高の不足を計算し、それを畝歩に換算して面積で差引くのである。これに対し、「有毛(ありげ)検見」のときは米の量で引く。
検見舂法之図(徳川幕府県治要略より)
畑年貢は永銭で示され、金納である。上畑一反歩当たり永一三〇文、中畑永一一〇文、下畑永一〇〇文であるが、屋舗は反当たり永一五〇文で一番高い。普通屋舗は上畑並みであるが、上畑より高いことも時々みられる。永とは永楽銭(永楽通宝)のことである。中国明朝の成祖永楽帝統治の時代に初めて鋳られた永楽銭は、一五世紀ころから日本に流入した。当時の日本では、各種の貨幣が混用されていたが、永楽銭は良貨として通用した。関東地方では、一六世紀中ごろから永楽銭が重視されるようになり、いわば、標準的貨幣としての扱いを受けるようになった。特に北条氏は永楽銭を重視し、その後を襲った徳川氏も、北条氏の慣行に従って銭勘定をし、やがて、永銭一貫文=鐚(びた)四貫文=金一両という交換比率が定められた。(大塚史学会編・新版郷土史辞典)
慶長一三年(一六〇八)に至り、幕府は、永楽銭の使用を禁止した。ところが、永楽銭を使わないのに、計算上では「永」が長い間用いられ続けたのである。例えば、永小作といった場合、普通小作米は米の量で示されるのに永楽銭何文で決められた小作料である。銭の価値が変動しても、昔の精銭「永」の一貫文=金一両という基準性は崩れず、近世全期にわたり関東農民の間で慣用し続けられたが、具体的使用方法は明らかでない。
立鳥村年貢割付状では、租率を計算することは困難である。租率については、定免の項で考察してみたい。