2 定免(じょうめん)

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 前記立鳥村の年貢割付は、検見により収穫高を調べて賦課しているが、次に示す宝暦四年(一七五四)の舟木村年貢割付は定免法によるものである。
 
   当戌(いぬ)より寅(とら)年迄五ケ年定免割付之事(22)
  高五拾四石八斗弐升九合壱勺                         田畑辻舟木村
     此納
一、米五拾俵壱升四合                               田畑
 右之通り当戌より寅年迄五ケ年定免之儀、村方役人惣百姓願い之通り相定め候上ハ其村方差出し候証文之通り、少しも相違無く、毎年十二月十日以前、急度(きっと)皆済せしむべきもの也。
  宝暦四甲戌年三月                           篠原半蔵印
                                     小野理左衛門印
                                    舟木村
                                     名主
                                     組頭
                                     百姓
 (裏書)
  表書之通り相違無く相納むべきもの也。
                左膳印


宝暦4年 舟木村年貢割付状(舟木 矢部泰助家蔵)

 免(めん)とは租率のことである。定免とは、過去何年間かの収穫高を平均して、その平均収穫高を基準に五年間なり一〇年間なりの租率を定めることである。期間は、五年・七年・一〇年といったものが多い。明治五年、木更津県権令柴原和の名による山根村年貢割付状(23)に、無年季定免とあるが、江戸時代にはその例をみない。
 定免法は、収入が一定し財政の見通しが立つので領主からは歓迎された。また、大百姓も増収による余得があるので概して喜んだようであるが、小前百姓の田畑は悪地が多く、定免期間でもたびたび凶作に見舞われたので大変苦しんだ。定免で請負ったときは、原則として途中で年貢の減額を願出ないことになっている。それでも、損毛の著しいときは減免を願出た。この場合は、「破免検見(はめんけみ)」が実施された。舟木村定免割付状は、非常に簡単で年貢高も米で表されているので租率が計算できる。舟木村の米一俵は四斗入りであったから、石に換算して計算してみると、租率は約三割六分である。慶応二年の山根村年貢割付状(24)に、高二五〇石、納米二〇〇俵と三升一合八勺、但し三斗八升五合入りとあるので、この租率は約三割八厘である。寛延二年の立鳥村年貢割付状(25)に
 一 高拾九石四斗五升三合  田畑高辻
    此取 米四石弐斗
               高ニ免三ツ壱分五厘六毛
       永壱貫五百五拾弐文

とある。租率三割一分五厘六毛である。
 文化六年の金谷村の租率は約三割九分、宝暦三年の桜谷村では約二割三分であった。このようにみてくると、租率四割に達したものはないが、小物成(こものなり)と称する雑租とその他の賦課があったので、実際にはもっと高率となった。
 正租は、検地帳に記載された田畑屋敷に課され、「物成(ものなり)」「取箇(とりか)」などと称され、田は現物納入が原則であったが、畑は金銭で納めた。江戸時代も後期となると田畑とも金納が多くなったが、郷土の村々では、現米を浜野または八幡へ津出しすることが多かった。金納させている領主も、飯米や餅米は江戸へ送らせていた。