宝暦九年(一七五九)の舟木村・大桶村・棚毛村・小野田村・吉沢村五か村の市岡給名主・組頭・百姓代連署の七ケ年定免請負証文(26)に、「日損・風損・水損・虫付・猪鹿荒シ・山崩此外何様之損毛御座候共、御相対(ごあいたい)にて御請負仕り候上ハ一言之御訴訟申上間敷(まじく)候」とある。この一節は定免の性格をよく示している。破免願いを出すことは容易なことでなかった。しかし、江戸後期となると、ほとんどの村々が定免法によったのに、年貢皆済目録に減免の記載があるものを多く見かける。一言の訴訟も申上げない筈なのに、破免願いが出されていた証拠である。旗本領には、大名領のような農政が無かった反面、極端な苛斂誅求の力も無かったようである。
宝暦9年 舟木村外四カ村定免請負証文(舟木 矢部泰助家文書)