口米は、鎌倉時代から口籾(くちもみ)と称して付加されていたが、秀吉のとき租米一石に付き口米二升と定められた。江戸幕府は、元和二年(一六一六)に次のように触出している。
条々(28)
一、年貢米升目之事、当納より、壱俵ニ付三斗七升ニ金を払、可二相納一事。
一、年貢米壱俵ニ付、口米・目こほれ壱升宛可レ納事。
一、銭方ハ、永楽百文之積ニ付、三文宛之積りニ銭可二相納一事。
右三ケ条、御料所并私領之百姓ニ至迄、堅可二申触一者也。
元和二年辰七月日
一、年貢米升目之事、当納より、壱俵ニ付三斗七升ニ金を払、可二相納一事。
一、年貢米壱俵ニ付、口米・目こほれ壱升宛可レ納事。
一、銭方ハ、永楽百文之積ニ付、三文宛之積りニ銭可二相納一事。
右三ケ条、御料所并私領之百姓ニ至迄、堅可二申触一者也。
元和二年辰七月日
これは、近世徴租法の基礎法令となった。先ず、一俵には正三斗七升を入れることを定めているが、これは、三斗五升入りとして計算された。「金を払う」とは、斗掻(とがき)で枡を払って正確に量ることをいう。江戸時代の一俵は三斗五升であるが、余分な二升は延米(のべまい)または出目米(でめまい)という。三斗五升を本石、二升を延米、合せて三斗七升を計立(はかりだて)といった。ここで、既に二升余計にとられている。更に、年貢米一俵に付き、口米・目こぼれ米として一升ずつ入れるので、四升多くとられることになる。一俵は三斗五升と規定され、これに三斗九升はいっているが、舟木村では四斗入り、桜谷村では三斗八升五合入りであった。これに、延米・口米が含まれているか否かは不明であるが、後年には本石・延米・口米という意識よりも、それらが総て含まれた四斗入りが一俵であるという概念に固定されたように思える。口米は、元々雑多な付加税を統一したものであるが、やがて、欠米(かけまい)・込米(こみまい)といった付加税も現れてきた。これは、運搬途中の欠減を補うものであったが、やがて付加税と化して来た。従って、租率はだんだん高率となってくるのである。
一俵に付き、いくらか余分な米を入れることは、明治になってからも行なわれ、明治五年の貢納規則では、一俵を四斗入りと定め、それに二升を余分に入れさせた。筆者が子どものころの記憶でも、余枡(よます)と称して量目の外に幾ばくかの米を俵に入れていた。昭和一〇年代で、重量制になってからであるから、重過ぎれば米を取り出したのであるが、余枡ということばに、江戸時代の名残りを感じさせられる。