7 石代納(こくだいのう)

257 ~ 259 / 699ページ
 田の貢租は、現物納入が原則であったが、金銭で代納することが一般化した。これを石代納といった。石代納するには、基準米価が必要である。地方凡例録によれば、毎年、一〇月一五日より晦日まで、毎日・上中下米の相場書を穀屋どもから支配役所へ差出させ、料所は代官・元締・手代、私領は領主役人が奥印をして代官所で取りまとめ、一六日分の平均値段を計算して勘定所へ提出する。勘定所では、これを吟味し石代値段を決めたと説明している。この値段書は、江戸城中の口に張り出したので、御張紙値段と称された。
 石代納相場を郷土の年貢皆済目録から拾ってみると別表の如くである。
石代納相場(郷土の村々の年貢皆済目録による)
石代納相場(郷土の村々の年貢皆済目録による)
年 代金1両につき
享保13年(1728)石 斗 升
1 4 5
寛延4年(1751)1 1 8
宝暦2年(1752)1 6 0
安永7年(1778)1 0 5
寛政7年(1795)1 1 6
文政1年(1818)1 3 5
文政12年(1829)  8 7
天保2年(1831)  9 9
天保3年(1832)1 1 4
天保7年(1836)  4 0
天保8年(1837)  4 0
天保9年(1838)  4 7
天保10年(1839)  8 8
天保11年(1840)1 0 9
天保12年(1841)  9 9

 江戸時代の米価の変動の烈しさがわかる。文政一二年の両に付き八斗七升という高値は、前一一年の大洪水や一二年の江戸大火の影響である。天保七・八・九年は物すごい高値であるが、天保七年の大飢饉にはじまり、世情も騒然たるものがあり、天保八年には大塩平八郎の挙兵まであって多難な時代であったことを物語っている。
 
安永七年(一七七八)の桜谷村年貢皆済目録(29)に
 一、米百五拾六俵三升六合壱夕  江戸廻
 一、米壱俵弐斗六升壱合     金納
    此金弐分永百文九分九厘 但金壱両ニ付
                 壱石五升買
 
とある。金納の分はきわめて少ない。ところが、天保一一年(一八四〇)の舟木村年貢皆済目録(30)では、納米五〇俵八升の内、三八俵二升二合八勺五才は、両に一石九升相場で金納している。残りの一二俵余りは、手樋代・名主給米・堰普請人足扶持・囲米(かこいまい)・海賃などに差引かれ、八幡津出し分は飯米五俵と糯(もち)米一俵に過ぎない。地頭により異なるが、江戸時代後期となると、一般的に石代納が多くなっている。
 石代納の外に、払米(はらいまい)も行なわれた。年貢収納米を現地で払い下げる方法である。弘化三年(一八四六)一一月、旗本石丸猪右衛門知行所三ケ谷村(現茂原市)の収納米百俵は、同じく石丸給八幡原村(現茂原市)名主平九郎に払い下げられた。(31)地頭へは代金が届けられるのであるから石代納と変わらない。変わるところは、生産した村方から直接金納されない点である。三ケ谷村で直接米穀を処分して金納する能力が無かったのかもしれない。
 所相場で安く売った米の代金で石代納することは、農民にとって不利であったが、八幡や浜野迄の運搬費は村方持ちであり、輸送の手配や途中での事故を考えると、金納の方が気楽な面もあった。一方、領主も家計が窮迫し、年末の一括納入ではやりくりがつかず、金銭で回数多く納入してもらう方が都合がよかった。年貢皆済目録を見ると、一月から毎月金納させているため、一二月には僅かしか残っていないものもある。貨幣経済の波は、現物貢納を形だけのものにしていった。