江戸時代には、全国的大飢饉が三五回あった。中でも被害の大きかったのは、享保一七年(一七三二)天明三―七年(一七八三―一七八七)天保七―八年(一八三六―一八三七)で、これを近世の三大飢饉という。享保の飢饉は、蝗の害によるもので、近畿以西がひどく、餓死者は一万人を越えたといわれている。近世最大の飢饉は天明のものである。長雨・冷害の連続と、天明三年の浅間山大噴火による降灰を主因としている。北関東から東北にかけてひどく、餓死者は数十万人に達したという。天保飢饉も冷害によるもので、災害は全国的であったが、特に東北地方の餓死者は十万人に及んだという。
飢饉に付随して、強訴・一揆・打ちこわしが瀕発した。天保八年の大塩平八郎の乱も、飢饉に対する為政者の無策、豪商の貪婪(どんらん)さへの憤りから発している。
飢饉とは、農業生産の著しい低下による社会災害である。単なる不作では餓死者は出ない。従って、凶作が即ち飢饉とはならないが、封建的封鎖経済と政治の貧困から、多くの犠牲者を出すに至ったのである。地方的凶作は、もっと数多くあったが、それは、三大飢饉のような大惨状を呈するに至らなかった。しかし、その地方の百姓を困窮のどん底に陥れ、社会的階級差を増大させている。
郷土の凶作はどのようなものであったか、入手できた郷土史料により年代順に述べてみたい。