2 明和二年の旱魃(かんばつ)

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 小榎本・渡辺泰之家所蔵の、明和二年(一七六五)の「永地覚」後書に、年貢米三七俵の用捨、一三俵の納入延期のことが記されている。「明和弐乙酉年夏、旱魃ニ而田畑共皆無同然ニ御座候」というありさまで、地頭用所に検見の実施を願出たが、来村してくれない。そこで、組頭八郎右衛門が出府して減免を願い、二一俵の用捨で御請(おうけ)して帰村した。しかし、惣百姓は得心せず、「弐拾や四拾之御用捨ニ而、御年貢上納成り難シ」として、惣百姓銘々出府して検見を願おうと掻ぎ出した。
 やむなく、八郎右衛門が再び出府し、結極三七俵の免租、外に延米一三俵が認められた。この年、小榎本村では、江戸商人久兵衛から四八両余りを借りて年貢上納にあてたため、「是より村方困窮」してしまった。以上が後書の要旨である。小榎本村の年貢高は一五〇俵ほどであるから、三分の一が免除あるいは納入延期となったのであるが、収穫が皆無同様では借金によって上納する以外にない。この借金のため小榎本村は長く苦しむことになった。凶作は、その年だけ農民を苦しめるものでない。後々まで尾を引くのである。