3 安永元年の御救米

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 安永元年(一七七二)小榎本村は不作であった。地頭の加藤氏は、十二月に救恤米一〇俵を下げ渡している。(42)この年の不作は、全国史には記載されていない。明和七年・八年は大干害の年であり、翌明和九年は、「めいわくな年」と騒がれ、そのため安永と改元されたほどであるから、当時の農村は、疲弊の極に達していた。僅かな凶作でも著しい打撃を受ける状態にあったのである。