4 天明の大飢饉

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 『天明三年(一七八三)是歳諸国飢饉、奥羽最も甚し、七月信濃浅間山噴火。天明四年、是歳諸国飢饉、奥羽殊に甚し、疾病亦流行す。天明五年、是歳奥羽飢饉。天明六年七月、関東大洪水、江戸最も著し』。読史備要の重要事項には、当時の模様をこのように簡潔に記してある。冷害に噴火・洪水が重なり、近世最大の飢饉となったのである。天明三年の浅間山噴火は、北関東を打ちのめした。熔岩流は群馬側の農村に大惨害を与え、降灰は北関東一帯を覆って作物に被害を与えた。浅間高原遊覧コースにある鬼押出しは、この時の噴火の名残りである。郷土に被害をもたらしたのは、冷害と洪水である。郷土は、温暖の地であるが、やはり冷害を受けた。桜谷、仲村多治見家の御用留に「当年至て不作ニ付き、来ル九月迄諸色(しょしき)皆相止め申し候。早々相背き候者御座候ハバ、壱貫文之過料、見除し候もの壱貫五百文急度(きっと)申し付け、取立て候段申渡す」とある。寅年(天明二年)一二月一九日の記録である。不作は天明二年から始まっている。諸色を止めるとは、祝事・祭事などを禁止したことである。右の御用留、天明四年の記録に次のようなものがある。
 「去ル卯(う)年(天明三年)百年茂(も)御座無き不作ニ而(て)、田畑共皆無同然ニ而(て)、右者(は)殊之外高直(たかね)ニ御座候。辰(たつ)(天明四年)夏中迄之相場付ケ左之通り。
 一、米両ニ三斗八升より四斗位 銭六貫文位
 一、麦百文ニ付き九合より壱升弐合仕り候」

 米価は、普通一両について一石前後であるのに四斗未満の高値となっている。当時の人々は、まさに百年に一度もないほどの凶作と感じたのである。
 御用留には、更に次のようなことが書き続けられている。
「去る天明三年には、御用捨があったのに年貢上納に差詰ってしまった。来る正月は、祝事を一切やめ、ほんの少しばかり世直しのため年の神を祝おう。」
「天明三年には、綿が少しもとれず、種もなくなってしまった。天明四年には、大坂から、百文につき種一升二合の割りで買い求めたが、天明四年も種がやっととれた程度であった。天明五年は諸色法度(しょしきはっと)にした。」
「天明四年・五年は諸色高値で、日本中に悪疫がはやり出した。五年正月より五月下旬まで、米百文につき六合五勺、麦九合、綿は一斤三百三十二文、粟三升、大豆一升で十二文ぐらいであった。」
 冷害が、延々三、四年も続いたことがわかる。異状気象である。しかし、この記録からは、奥羽のような死屍累々といった惨状は感じられない。天明六年三月、小榎本村では夫食(ぶじき)に差詰って、地頭所から扶持米金を拝借(43)している。端境期前に食物が尽きてしまったのである。一八軒で二両の拝借であるから、金額としては少ない。飢えてはいたが死に直面するものでなかった。天明三年から六年にかけて、上総国にも越訴(おっそ)・強訴(ごうそ)・打ちこわしなどが散見されるが、郷土からは、そのような史料は発見されなかった。