5 寛政の慢性的不作

274 ~ 275 / 699ページ
 寛政元年(一七八九)小榎本村では、「当旱損(かんそん)ニ而(て)、毛附(けづけ)之場所一向持たず候者もこれ有り」田地が荒れてしまったので、御救米として一五俵用捨して欲しい、と嘆願している。(44)日照りで、植付けできない田地がたくさんあったのである。
 寛政五年(一七九三)は、「麦作・大豆等ニおふくわむし多くたかり、世間一同かね・たいこニ而送り申し候。此年正月より五月迄雨多く、麦作悪く、半毛ニ取入れ申し候。」(45)というありさまであった。この年は、正月から七月までしけ、それより一〇月まで雨が降り続いたとも記されている。しけと雨が降り続いたのと、どう違うかわからないが、日照時間が不足しては作物は稔らない。虫害が発生しても、かね・たいこで他所へ追払うことを祈る以外に方法がなかった。この年は、麦作が不良で、幕府役人の巡見が行なわれている。
 寛政六年(一七九四)の小榎本村年貢皆済状(46)に、
 米五拾弐俵  日枯ニ付御用捨
 米七俵    夫食米被下

とある。本納口米とも一五四俵余のうち、五九俵が用捨あるいは下給されている。相当ひどい干害である。しかし、米相場は、両に一石一斗六升で安値である。全国的には豊作であったと考えられる。郷土の村々は、旱損場が多かったのである。