天保五年正月、幕閣から出された布令は、四月に関東取締出役から村々へ触れ回された。米穀在庫調査の触書(48)である。
一去る巳年(天保四年)陸奥・出羽稀之違作ニ而(て)、江戸廻米之無(これな)く、右之両国場所に依り飢渇之者之有る趣、風聞世上江相聞へ、米穀囲持(かこいもち)候人達押移り、利潤之為に不埓(ふらち)之売買をも致し候哉(や)ニ而(て)、江戸表ハ勿論、在々(ざいざい)迄も米価高値に成り、未々之者共難儀に及ぶべきに付、関東筋国々之儀、米麦雑穀とも、其村町宿役人共より相改め、小前所持之分、夫々(それぞれ)家内人別に引合せ、当年新穀出来迄之手当をいたし置き、其余分ハ持主限り最寄(もより)市場町江売捌(さば)き、又ハ江戸廻し致し、(中略)前書之通り売捌方致すべく候、右ニ付、売買津出し廻船等相互に正路に致すべきは勿論ニ候得共(そうらえども)、別而差支え之(てさしつかえこれ)無き様、速に取計うべく候、(後略)
この触書に対し、舟木村では早速米麦雑穀の保有高を書上げ、なお食糧事情の概況を報告している。
私共村方之分、左之通り書上ゲ奉り候
曲淵金之丞知行所
天保五午四月 安藤裕次郎知行所
市岡太左衛門知行所
上総国長柄郡舟木村
百姓家数三拾軒
人別百五拾人
内奉公稼仕者(ほうこうかせぎつかまつるもの) 拾弐人
村方穀数相調候分
覚
一 米七拾八表(ママ) 但し四斗入
一 麦三拾五表 〃 四斗弐升入
一 雑穀合弐拾五表 〃 四斗弐升入
右米麦雑穀合百三拾八表
一 米八表 安藤裕次郎知行所
貧民江地頭ゟ年賦拝借
一 米壱俵半 市岡太左衛門知行所
貧民へ御救米被二下置一候
一 米弐拾俵 村役人其外高持之百姓ゟ
小前難渋之者江取続米貯置候分
惣米麦雑穀百六拾七俵二斗
一 私共村方之儀ハ、地頭所より救米・拝借米其外の貯米に而ハ少々不足に御座候得共(ござそうらえども)、其余ハ農間渡世(のうかんとせい)相励み取続き致させべく候仕儀に御座候得者、売米に相成り候分御座無く候
一 川々河岸問屋(かしとんや)方へ、江戸廻米ハ申上ぐるに及ばず、穀売買商人御座無く候
一 金銭米穀、村方并に近村之貧民江合力(ごうりき)いたし候者御座無く候
一 金銭米穀、村方にて近村江利無利足年賦貸渡し候者御座無く候
右者は、村方惣百姓、米麦雑穀取調べ候所、書面之通り少しも相違御座無く候 以上
曲淵金之丞知行所
天保五午四月 安藤裕次郎知行所
市岡太左衛門知行所
上総国長柄郡舟木村
百姓家数三拾軒
人別百五拾人
内奉公稼仕者(ほうこうかせぎつかまつるもの) 拾弐人
村方穀数相調候分
覚
一 米七拾八表(ママ) 但し四斗入
一 麦三拾五表 〃 四斗弐升入
一 雑穀合弐拾五表 〃 四斗弐升入
右米麦雑穀合百三拾八表
一 米八表 安藤裕次郎知行所
貧民江地頭ゟ年賦拝借
一 米壱俵半 市岡太左衛門知行所
貧民へ御救米被二下置一候
一 米弐拾俵 村役人其外高持之百姓ゟ
小前難渋之者江取続米貯置候分
惣米麦雑穀百六拾七俵二斗
一 私共村方之儀ハ、地頭所より救米・拝借米其外の貯米に而ハ少々不足に御座候得共(ござそうらえども)、其余ハ農間渡世(のうかんとせい)相励み取続き致させべく候仕儀に御座候得者、売米に相成り候分御座無く候
一 川々河岸問屋(かしとんや)方へ、江戸廻米ハ申上ぐるに及ばず、穀売買商人御座無く候
一 金銭米穀、村方并に近村之貧民江合力(ごうりき)いたし候者御座無く候
一 金銭米穀、村方にて近村江利無利足年賦貸渡し候者御座無く候
右者は、村方惣百姓、米麦雑穀取調べ候所、書面之通り少しも相違御座無く候 以上
米価騰貴抑制のため、幕府は関八州の村々から米麦雑穀を江戸へかき集めようとしたのであるが、舟木村では村民の夫食にやや足りないように書上げてある。
立鳥村の米穀取調書上帳(49)を見ると、こちらはやや余裕があった。米二四俵、麦九俵、粟一〇俵、(いずれも四斗入)計四三俵を、「是者、夫食差引き売米に相成るべき分」と報告している。恐らく江戸回米となったものと考える。天保四年の奥羽・出羽の大凶作は、間接的に房総の地まで騒がしているが、この地方は普通作以上であったことがわかる。