8 天保の大飢饉

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 天保大飢饉の最大の被害地は、またしても、奥羽であった。江戸は、極端な米不足に陥り、米価騰貴のため、天保七・八年にわたり、米穀の儀に付き、しばしば触書が出されている。
「当申(さる)年(天保七年)之儀、暑中より雨天不時之冷気相続き候とは申乍ら、麦作は十分之収納、田方之儀も此節より照続き候上ハ、皆無と申すにはこれ無く、米麦之差別ハこれ有り候とも、夫食差支(ぶじきさしつかえ)候程之年柄にこれ無く候処、米麦値段追々引上り、貧民取続き兼(かね)、人気穏かならざる趣、右ハ全く。去ル巳(み)年(天保四年)不作以来、米穀囲(かこい)持ち候人気押移り、中には利欲を抱き、余業之者も穀商(あきな)ひ相始め、糶買(せりがい)致し、猶米価引上ぐべき見込みを以て、囲持(かこいも)ち候族(やから)もこれ有る趣御聴に及び、左之通り仰せ渡さる。」(50)
 この触書の趣意は、関東の状況を示している。麦は普通作、米作も冷害を受けたが、八月ごろから照り続いたので皆無というほどでない。ただ東北の不作が続いて米不足となり、米商人その他の者が買占めをはじめ、一層米価騰貴に拍車をかけている。買占めを抑制し、米穀の流通をよくするため、次のような条々(51)が触れられた、
一 米穀売買渡世の者以外、新たに米商(あきない)を始めてはならない。
一 家族の多い者が、飯米を買入れたり、身元相応の者が貧民救いのため米穀を買入れたりしたときは、その仕訳を報告すること。
一 自分の利欲のため、米穀を囲持つ者は、貧民の疑惑を招くので、夫食以外は売払うこと。これらの者の中には、領主・地頭の差図で買集めているなど偽りを申す者もあるというが、このような者があれば、御取締出役まで申出ること。
一 酒造は、減石を申付けられているが、濁酒(どぶろく)など仕込んで商っている者もあるので、きびしく取締ること。
一 万一、悪者共が徒党を企てても、決して荷担(かたん)しないこと。
一 成丈麁食(なるたけそしょく)にし、余品は、江戸へ回米すること。
 米穀のことだけでなく、徒党に加わることを警戒した項目もある。各地に、一揆・強訴・打ちこわしなどが起こり、徒党に対して神経をとがらしていたことがわかる。

 この年の一二月になると、事態は、更に悪化している。天保七年一二月の御触書(52)によると、困民が徒党を企て、教諭しても改めないときは、「切捨て又ハ、玉込鉄炮を以て打払い候ても苦しからず」というきびしいものになった。世情騒然たる様をうかがうことができる。
 では、天保七・八年の郷土の作柄は、どのようなものであったか。天保七年は、やはり不作であった。旗本市岡吉太郎は、村方からの願いにより、検見役人を、九月、知行所五か村へ出役させた。舟木村と埴生郡棚毛村・下小野田村、市原郡大桶村・吉沢村である。検見の結果、舟木村は、相給棚毛村同等の減免となった。しかし、舟木村名主九左衛門は、当村は小村で、特に難渋していると申張り、格別の勘弁を以て、更に四分五厘の用捨を受けた。最初の免除率がわからぬので、全体で何割の免租となったか不明であるが、この年の舟木村年貢皆済目録(53)によれば、納米五〇俵八升のところ、不作用捨として一六俵二斗六升が差引かれているので、減免率は約三割二分である。このことは、郷土も相当な冷害を受けたことを示している。冷害は、部分的被害に止まることはない。郷土全体が不作であった。ただ、奥羽のように、八割・九割の減収とは比ぶべくもない。

風損用捨米割附帳
(山根 道脇義治家蔵)

 舟木村では、天保九年にも、不作で一〇俵の用捨があった。天保一〇年、小榎本村では、米一〇四俵三斗八升六合七勺が違作用捨となっている。(54)年貢割付けは、一五〇俵二斗六合七勺であるから、約六割八分の減免である。このようにみてくると、天保四年から引続いて、凶作の年が非常に多い。天保年間は、農村荒廃のことが語り伝えられているが、天災と人災に打ちのめされて、人の心まで荒んでしまったのである。
 嘉永四年(一八五一)立鳥村は高水のため畑が荒され、米五俵が救米として、地頭から与えられているが、この程度の災害は間断なくあったものであろう。入手できた史料の範囲内でも、前述のような凶作が例示できたのであるから、江戸時代の農業は、まさに自然災害との戦いであったといえる。