江戸時代の庶民階級のうち、約八割が農民で残りの約二割が職人や商人であった。農民は、武士に次ぐ身分とされたが、それは、封建支配が農村経済の上に立っていたからである。武士の生活は、農民が土地を耕し貢租を納めることにより成り立っていた。農民の貢租は金に代えられ生活用品が購入されたので、武士の生活と貨幣経済は切り離せるものではないが、封建体制の主たる基盤は、やはり農村にあった。そのため、貢租の完全収奪を目指して苛酷な統制が、農業生産だけでなく生活全般にわたり加えられていた。本多佐渡守正信の著と伝えられる『本佐録』には、「郷村百姓をば、死なぬ様に生きぬ様にと合点(がてん)いたして収納申付る様」にと記されている。これは、東照神君御上意であるといっているので、家康の考え方である。
また、『慶安御触書(けいあんおふれがき)』には、「百姓は分別(ふんべつ)もなく、末の考もなき者に候ゆえ、秋になり候へば米雑穀をむざと妻子にも食はせ候。いつも、正月・二月・三月時分の心をもち、食物を大切に仕(つかまつ)るべく候に付、雑穀専一に候間、麦・粟・稗・菜・大根そのほか何にても雑穀を作り、米を多く食ひつぶし候はぬやう仕るべく候」と述べている。このような考え方が、農村政策の基礎をなしていたのである。年貢収納を確保するためには、食生活の末に至るまで制限を加えるとともに、再生産のための最低限の保護を与えることが基本政策となっていた。