農民の離村については、江戸初期は比較的寛容であった。慶長八年(一六〇三)の覚書(おぼえがき)(1)には、「御料ならびに私領百姓の事、その代官・領主非分有るにより所を立退(たちの)き候ニ付いてハ、縦(たとい)その主より相届け候とても、猥(みだ)りに帰し付けすべからざる事」とあり、領主に非分のあるときは立退くことを認めている。また、同じ覚に、「百姓をむざと殺し候事御停止(ちょうじ)たり」とあり、本百姓育成期の農民に対する幕府の姿勢をうかがい知ることができる。
しかし、寛永二〇年(一六四三)の「土民仕置(しおき)覚」(2)には、「百姓年貢方訴訟のため、所をあけ、欠落仕(かけおちつかまつ)り候者の宿を致しまじく候」とあり、欠落者に対し厳しくなっている。そして、支配者の悪政に対し勘忍ならなくなった者は、年貢を皆済(かいさい)してから移住せよ、と条件がつけられてきた。重税に耐えかねて退転する百姓が次第にふえ、反動的に統制が強められたことを物語っている。大名領では、元和・寛永のころから欠落百姓の厳罰、出稼(でかせぎ)の禁止などの処置がとられていたが、旗本領の多いこの長柄では幕府の政策がそのまま適用され、大名領と比べると比較的規制がゆるやかであった。正徳四年(一七一四)地頭所(ぢとうしょ)より立鳥村に達せられた掟書(おきてがき)(3)にも、「所を逐電(ちくてん)あるいは身上(しんじょう)を潰(つぶ)し候者これ有れば、申し来るべき事」と簡単に触れているだけである。