2 奉公稼(かせぎ)の禁

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 農村人口の減少は逐電・欠落などだけによるものでない。出稼ぎに出ることも大きな要因であった。江戸時代中期以降、農業労働力が不足してくると、農民が奉公稼のため離村することをきびしく制限するようになった。正徳四年の立鳥村掟書に、「男女老若によらず、外え奉公に出候はば此方え申達すべし。毎年、人別を相改むることに候間、いよいよ以て堅くこれを訴え罷り出べく、若し、自分として出候者これ有れば、後日に聞くといふとも、曲事(くせごと)たるべき事」として、勝手に出奉公することを禁じている。この掟書の中に、人身売買の禁、十か年以上の長年季奉公の禁が示されているが、これらは、既に、幕府できびしく禁じているものである。また、年季奉公の請人(うけにん)は、近い親類の者が立つべきで、由緒もない者が金銀を取って請人となった場合、後日に争いが起これば請人の越度(おちど)であるとして、職業的人買人を牽制している。これらも、農村人口減少に対するひとつの歯止め策であった。安永六年(一七七七)、幕府は「奉公稼之儀ニ付御触」(4)を出した。「近来在方(ざいかた)村々のもの共耕作を等閑(とうかん)にいたし、却て困窮等の儀申立て、奉公稼に出候もの多く、所持の田畑を荒し置き候類(たぐい)これ有る由相聞き、不埓(ふらち)の至りに候」とし、以後は、耕作に支障があるか否かを村役人が糺(ただ)し、余分の人数があれば村役人同意の上、年季を限り奉公に出るようにせよ、という趣意である。農業労働力流出防止のための引締策が漸次強化されていく。