寛政二年(一七九〇)第一回の帰農令が出た。「在方より当地(江戸)え出候者、故郷え立帰りたく存じ候えども、路用金調えがたく候か、立帰り候ても夫食(ぶじき)・農具代など差支え候者は、町役人差添い罷(まか)り出べく候」(5)として、吟味の上、それぞれ手当を与えるというものであった。しかし、余り効果がなく、翌寛政三年及び五年と引続き三回も同様の布令が出されている。享保改革以降の年貢徴収はきびしく、農村は疲弊の極に達していたので、帰農しても生活の目途(めど)が立たなかったのである。下って天保一四年(一八四三)の人返令(6)は、勧奨というより強制であった。在方の者が新たに江戸へ入ることが禁止され、出稼ぎも期限付きとなり、既に江戸に住みついている者も妻子が無く、一季住み同様の者は帰郷を強制された。
これらの離農防止のための触書などは、郷土史料からはあまり発見されない。天保一三年一二月の「御取締御触書并規定連印写」(7)に、「男女共猥(みだ)り江戸表え罷り出、奉公稼ぎ仕りまじく候事」という一か条を見るに過ぎない。江戸では、「上総奉公」といわれる程上総出身の仲間(ちゅうげん)や小者(こもの)が多かった。また、旗本たちは自らの知行所から、百姓の二、三男を呼び寄せて下人として召使った。年貢皆済目録に、「米三俵仲間二人給として下さる」といった記述が見られる。その村から、地頭屋敷へ仲間二人を差出しているのである。その分として米三俵が年貢米から差引かれている。桜谷村では、年貢未進の百姓五名を、奉公人として差遣したいという願書を出している。それも厳しい人返令の出た天保一四年一二月のことである。このようにみてくると、幕府の帰農政策も、郷土ではほとんど効果がなかったように思える。
初芝村酒巻政雄家に蔵された四冊の宗門人別帳によれば、同村の人口・家数の推移は別表のとおりである。文化一〇年から安政五年までの四五年間に、家数は九戸から五戸に減り、人口も一二人減少している。女子は半数以下に減っているのに、男はあまり変動していない。初芝村五五石余の高を保持するには、一定の男子労働力を要したのである。いずれにしても、高五五石の可容家数は五軒ぐらいのものであろう。潰百姓となった四軒がどうなったか不明であるが、江戸後期農村の荒廃ぶりを物語る史料である。人返し政策は、権力ではどうにもならなかった。百姓がじゅうぶん生活していけるような施策がない限り、農民を村にしばりつけて置くことは不可能なことである。
初芝村人口及び家数の推移(酒巻政雄家宗門人別帳)
初芝村人口及び家数の推移(酒巻政雄家宗門人別帳) |
年 代 | 男 | 女 | 計 | 家族 |
文化10年(1813) | 17人 | 23人 | 38人 | 9軒 |
天保5年(1834) | 18 | 16 | 34 | 7 |
弘化3年(1836) | 13 | 12 | 25 | 6 |
安政5年(1858) | 16 | 10 | 26 | 5 |