「百姓死去、跡目相続の者これ無くば…(中略)…男女に依らずその筋の者を取立て…(中略)…その跡目相違なくこれを渡すべし」(8)これが原則であった。地頭に断りもなく家を荒し、田地を持添えるようなことがあれば、名主・組頭・五人組まで罰せられた。領主としては、本百姓を一軒も潰したくなかったのである。
寛政六年(一七九四)の刑部村五人組帳前書(9)に、潰百姓の跡目相続について次のごとくくわしく規定している。
「百姓潰(つぶ)れ又は死失、跡潰れ候はゞ、其者の田畑・屋敷・山林・家財・諸色(しょしき)相改め、紛失仕らざる様に庄屋・年寄・五人組立合い吟味致し、帳面に記し、地頭役所え申達し差図を請け、親類又は縁者の内にて跡式立て申すべく候事」
このように、知行所内の百姓の頭数は、是非とも確保する必要があった。欠落百姓も、帰農するならばその罪を許した藩もあったほどである。潰百姓や欠落百姓の残した田畑からの年貢は、村中の責任において納入した。このような土地は、村内百姓に売払われることもあるが、理想とするところは跡式を立てることであった。百姓数が減ると、夫役その他の諸役の面で支障があったからである。