1 分地願

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 分地にはむずかしい条件を課していたが、それでも土地を分け与える者は時々あった。天明三年一〇月、小榎本村甚右衛門の弟佐助は、分家願を出し、一軒分百姓として独立することを認められた。
   恐れ乍ら御願上げ奉り候(15)
一、御知行所上総国長柄郡小榎本村百姓甚右衛門弟佐助儀、八、九年借地仕り、二、三年の願いには壱軒分百姓に致し下され候様に相願い、これに依り、此度惣百姓相談仕り、こぞって恐れ乍ら御願い申上候、何卒(なにとぞ)佐助儀御慈悲を以て百姓に仰せ付けられ、下され候はゞ、偏(ひとえ)に有難く仕合せに存じ奉り候。 以上
 この願書は、村方三役、兄、本人連署によるもので、宛先は地頭である。
 分家は、新宅とか新家(にいえ)とか新屋敷(あらしき)とか呼ばれ、郷土にもたくさんあるが、多くは明治以降のものである。江戸時代には、厳重な基準があり、しかも惣百姓の承認が必要であった。分け与える田畑のことには触れていないが、百姓といった場合は土地所有者をいい、土地を持たない無高の水呑(みずのみ)とは区別されていたので、佐助は何石かの高を譲り受け、兄甚右衛門は、なお且一〇石以上の高を保有していたと考えられる。
 一軒百姓として独立した上は、屋敷地が必要である。前の分家願と同時に、熊野下の畑七畝五歩を屋敷地として地目変更願を差出している。耕地をつぶすことは厳重に制禁されていたので、この地目変更も容易でなかったと推察される。ただ、畑と屋敷の石盛はほぼ同じであるから、村高には影響がなかった。
 熊野下の畑地への分家については、村方でも条件をつけている。屋敷内に竹木を植えてはならない、ということである。周辺の耕地に障ることを恐れたものである。佐助は、兄甚右衛門と連名で誓約書を書いた。
 「此度、私儀分地百姓に願い下され、忝(かたじけな)く存じ奉り候、それに付き右御相談の通り、私居屋敷(いやしき)え竹木植え申さず候、尤(もっとも)、かこえくねは致し、然れども回(まわ)りの田地に邪魔ニならぬ様仕るべく、後日のため件(くだん)の如し」(16)
 江戸時代の分家は、このように面倒な手続きを要したのである。