分地制限は、百姓の零細化を防ぐ幕府の政策であるが、農民自身にとっても細分化は没落への第一歩であった。大部分の百姓は、五石ないし一五石ぐらいの高持ちで、分地できる大百姓は微々たるものであった。それでも、分地する者が絶えなかったようである。地方凡例録にも、「親の田地高拾石、反別壱町歩より内は、兄弟に分け譲らせまじく、弟は奉公に出るか養子に遣わすか、兄と一所に居て田畑を作り万事を稼ぎ、又は職人にもすべし、拾石壱町より少しに分るときは、段々小高に成り、末には水呑同然と成て互に苦む、これを分るを古来より田分(たわけ)と云て馬鹿(ばか)にたとえたり」と述べている。田分者(たわけもの)というのは、分地する者は馬鹿者であるという意から由来している。