正徳四年の立鳥村掟書にも「切支丹宗門の儀、毎年これを改むると雖(いえど)、猶以て油断無く常々心掛け、若し不審成る者これ有るに於ては、早々申出ずべく、隠し置き脇より顕るるにおいては、名主・組頭曲事(くせごと)たるべき事、附(つけたり)高札古くなり候はゞ、早速申来り建て替えべき事」とあり、切支丹制禁の高札が常時立てられていたことを示している。また、延享四年(一七四七)の刑部村五人組帳(18)前書にも、切支丹宗門制禁のことを述べた後、「宗門人別帳に記し、毎年春中急度指出すべく候事」とあり、宗門人別帳は毎年提出することを義務づけられていたことがわかる。
舟木村人別宗門御改帳
(舟木 矢部泰助家蔵)
次に、文化一〇年の初芝村宗門人別改帳(19)を掲げてみる。
文化十酉(とり)ノ年
宗門人別御改帳
三月 日
初芝村名主 六左衛門
上総国長柄郡初芝村
真言宗西光院印旦那 六左衛門印 五十壱才
女房 四十七才
伜栄蔵 廿五才
女房 二十三才
〆六人内男三人 男子栄二郎 二才
女三人 母 七十六才
(中略)
高五拾五石九斗六升三合 家数九軒
人数合三拾八人 男拾七人 女廿壱人
右の人数先祖代々当寺旦那ニ紛(まぎ)れ御座無候、若シ御法度(ごはっと)の宗門の由訴え申す者御座候ハバ、何方迄も拙寺罷(まか)り出、急度(きっと)御申訳ケ仕るべく候、その為、旦那銘々印形仕(めいめいいんぎょうつかまつ)り差上げ申すべく候
上総国長柄郡刑部村 本寺月輪寺
同国同郡 初芝村
門徒 西光院印
組頭 新右衛門印
名主 六左衛門印
前書の通り切支丹宗門累年御制禁仰せ付けられ、宗門御穿鑿(ごせんさく)ニ付き、村中残らず明細ニ吟味仕り候所、御法度之宗門の者御座無候、若シ隠し置き、後日脇より露顕仕り候ハバ、名主百姓如何様の曲事ニも仰せ付けらるべく候、仍(よっ)テ件(くだん)の如し、
文化十酉ノ三月 日 初芝村組頭 新右衛門印
名主 六左衛門印
斉藤久右衛門様御内
初芝村九軒は、全部真言宗である。江戸時代の人々は、総て、どこかの寺に所属させられた。当初は宗門改めが目的であったが、後には人別帳としての機能を果たすようになった。勘当(かんどう)その他で除籍されると、この宗門人別帳から名前を削られ、無宿人となる。つまり、寺を通して庶民の実態を把握したのである。従って、寺院は努力しなくても一定の檀家を確保できたので、このことが近世の宗教活動を全般に低調とした大きな原因となった。文化十酉(とり)ノ年
宗門人別御改帳
三月 日
初芝村名主 六左衛門
上総国長柄郡初芝村
真言宗西光院印旦那 六左衛門印 五十壱才
女房 四十七才
伜栄蔵 廿五才
女房 二十三才
〆六人内男三人 男子栄二郎 二才
女三人 母 七十六才
(中略)
高五拾五石九斗六升三合 家数九軒
人数合三拾八人 男拾七人 女廿壱人
右の人数先祖代々当寺旦那ニ紛(まぎ)れ御座無候、若シ御法度(ごはっと)の宗門の由訴え申す者御座候ハバ、何方迄も拙寺罷(まか)り出、急度(きっと)御申訳ケ仕るべく候、その為、旦那銘々印形仕(めいめいいんぎょうつかまつ)り差上げ申すべく候
上総国長柄郡刑部村 本寺月輪寺
同国同郡 初芝村
門徒 西光院印
組頭 新右衛門印
名主 六左衛門印
前書の通り切支丹宗門累年御制禁仰せ付けられ、宗門御穿鑿(ごせんさく)ニ付き、村中残らず明細ニ吟味仕り候所、御法度之宗門の者御座無候、若シ隠し置き、後日脇より露顕仕り候ハバ、名主百姓如何様の曲事ニも仰せ付けらるべく候、仍(よっ)テ件(くだん)の如し、
文化十酉ノ三月 日 初芝村組頭 新右衛門印
名主 六左衛門印
斉藤久右衛門様御内
檀那寺との関係は、家を離れて他家に住込み奉公をするときもついて回った。つまり自分の家の檀那寺から寺請証文が発行されない限り、住込み奉公はできない。従って、奉公先の宗門人別帳には、「何村誰某倅、何年季にて傭入れ申し候」といったように付記されているのが普通である。切支丹信徒でないという証明書の形をとるが、現代社会において、就職の際戸籍抄本を提出して、身元を証明するのと少しも変わらない。ともあれ、寺院を通しての庶民統制は、江戸時代独特のものといわなければならない。