3 五人組帳

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 隣の五戸をもって組織されるのが普通であった。しかし、郷土のように分郷支配の多い村々では、必ずしも隣近所というわけにはいかず、どの領主に属するかによって錯綜する場合もあった。また、端数の出る場合は、当然六戸または四戸で組織された。
 五人組は、年貢納入や治安維持について連帯責任を負わされた。年貢を完納できぬ者があると、先ず五人組の中で弁済させられた。また、組の中に犯罪者がいた場合、密告を強要され、見逃すと罰せられた。五人組帳の作成が規定されたのは、承応四年(一六五五)である。五人組帳の前書は、領主の領民に対する最も基本的な法であった。

五人組連印帳(国府里区所蔵)

 延享四年(一七四七)の刑部村五人組帳(20)前書は、全五六条にわたる長文である。徒党の禁、鉄炮の禁、年貢米金に関する規定、隠田(かくしだ)の取締り、新田畑開発に関する規定、田畑永代売買の禁、質地に関する規定、堰・川・道普請に関する規定、伝馬(てんま)の規定等あらゆるものが網羅されている。単なる法と異る点は、生活上の細かな点まで規制していることである。「常々親孝行仕り、主従礼儀を正し、夫婦相宜しく、兄弟親類と中能(なかよく)相続仕り、万端慎みつき合い家業大切に致すべき事」といった、儒教思想に基づく人倫の道を第一条で説いている。衣食住についても明確に規定している。「布・木綿の類着用すべき事」布とは麻布のことである。絹は名主でも着用することができない。食については、この前書では規定されていないが、年貢を完納すれば百姓の手元に残る米は僅かであり、じゅうぶん米を食べていないことは明らかである。神事・祭礼・祝儀・不祝儀の際の経費や料理については、「奢ケ間敷儀(おごりがましきぎ)」を固く停止された。住については、「百姓、分限に応ぜざる家作仕りまじき事」とうたわれている。これらの規制の基にあるものは、百姓の分際(ぶんざい)に、という考え方であり、奢侈の風習により年貢納入の滞ることを恐れたものである。
 この考え方は娯楽の規制となって現れ、「村中に於て、勧進能(かんじんのう)・相撲・操(あやつり)かぶきその外諸見もの堅く無用たるべき事」となる。僅かな楽しみである飲酒も「惣て大酒仕るべからず」となり、神事・祭礼も農業にさわるから美麗にやってはならないと規制している。居村からの出入りについても、きびしい制約があった。親類・縁者へ一夜泊りで出掛けるときも、庄屋・名主・年寄・五人組へ届け出なければならない。帰宅したときも同様である。
 旗本は、知行所の治安維持についてはほとんど無力であった。幕領についても同様で、代官は年貢収納吏に過ぎなかった。そこで、村の治安維持については、事更細かな規定がなされている。往還(おうかん)の旅人に一夜の宿も貸してはならない。子細(しさい)あって貸すときには、五人組・庄屋・年寄と相談すること。旅人が村内で喧嘩(けんか)したら双方を捕え置き、負傷していたら手当をして地頭用所へ届け出ること。行方知れざる浪人・坊主・山伏・行人(ぎょうにん)・こむ僧・比丘尼(びくに)・乞食(こじき)を村内に居住させてはならない。もちろん、一夜の宿も貸してはならない。欠込(かけこみ)者があり、追手が来たならば村中残らず馳集り取逃がさぬように、但し、理不儘(りふじん)に打殺してはならない。このような事柄が細かに規定されている。
 おもしろいのは、盗人に対する処置である。夜盗がはいったら、当人はもちろん近所の者まで大声を立て、もよりの者からだんだん声を合わせて捕えよ。若し、出合わない者があれば曲事(くせごと)である。というものである。警察力がないので、その責任を農民に負わせている。多勢で大声を張りあげ囲み捕えるという幼稚な方法を指示している。農民も自衛のため大声を出したのであるが、危険な場合は他村へ追払うだけで近寄らなかったらしい。その反面、弱そうな盗人は打殺してしまうようなこともあり、理不儘な殺害を禁じている。三笠附・博奕(ばくえき)・ほう引その他どのように軽い賭事(かけごと)も固く禁止された。その宿を貸した者も同罪である。博奕は賽(さい)を使うが、三笠附もほう引も賽を使わないだけで、ばくちには変わりなかった。
 以上のような大小様々な規制が、総て五人組の連帯責任において課されていた。この前書に続いて四軒ないし六軒の組がつくられている。名主は、惣百姓にこれを読み聞かせ、一同に違背ない旨を誓わせ、印判を押させた。
 五人組の一番最初に書いてある者を、五人組頭または判頭といった。この組織は、江戸時代の庶民統制にきわめて有効に作用した。
 五人組は、単に連帯責任、相互看視のみを目的としたものでない。相互扶助という人間集団に欠くことのできない機能ももっていた。五人組の内で、病気したり牛馬に死なれたりする者があると、「相残る四人之者寄合い、手前の田同然に耕作致す」しきたりであった。