庶民に対する規制は、数限りなくあったが、特にきびしかったのは徒党の禁であった。百姓一揆や打ちこわしに対する警戒である。「徒党がましき儀」は「理非を論ぜず曲事(くせごと)」であった。
鉄炮は、撃つことはもちろん所持することも厳禁されていた。例外として、作物を荒す鳥獣に対する威(おどし)鉄炮や猪鹿撃ちの玉込鉄炮は、預けるという形で許された。ただし、威(おどし)鉄炮(空砲)といえど、使用の度に許可を得なければならなかった。この鉄炮で鳥獣を殺せば、名主・組頭に至るまで罰せられた。貸し借りも一切停止であった。野獣が多く、作物の被害の甚だしい村は、玉込鉄炮が預けられた。文政二年正月、篠網村に預けられた鉄炮は、作物を荒す畜類を撃つことだけ許されたものである。その他のものを殺傷したときは、名主、五人組まで罰せられる。この鉄炮は親子兄弟といえで貸してはならないことになっていた。
篠網村の「鉄炮預願」(21)は、西丸御書院番松平対島守組布施藤兵衛(篠網の地頭)から、大目付中山飛騨守忠英に差出されたものである。鉄炮を村方へ預けることは、領主である旗本の独断ではできないことであった。規制は細かな面にまで及び、牛馬の売買、質物の扱い、百姓の買物のしかたまで干渉している。五人組制度による相互看視や、驚くほど微細にわたる生活規制が、以後の日本人の性格形成に何らかの影を投げかけたことは否めないようである。