恒常的な法令は、五人組帳前書や掟書に要約され、村方へ配布されていたが、幕府で新法を発布したり、臨時的指令を発したりするとき、触書が諸国郷村へ回された。臨時的なものとしては、巡見使前触とか日光社参の前触がある。領主からの命令は、達(たっし)・下知(げち)・申渡(もうしわたし)・覚(おぼえ)などと書かれている。その適用範囲は、領主の支配地内に限られていた。
天保七年(一八三六)一揆取締りの御触が、老中松平和泉守乗寛から発せられた。「当秋以来米価高値ニ付き、人気(じんき)穏かならず、関東筋所々ニおゐて困民共党を結び」という天保飢饉による騒動に対し、徹底的弾圧を命じたもので、教諭しても聞き入れぬときは、「切捨て又ハ玉込鉄炮を以て打払い候ても苦しからず」といったきびしいものであった。触書は、近世初頭よりしばしば出されているが、写しの残されているのは天保期のものが多い。天保改革に伴う生活改善の指示である。貨幣経済の浸透と大飢饉にゆさぶられて、幕府はその対策に必死であった。そのため、触書が洪水のように出され、その写しや請書の控が、郷土にも多数残されている。
老中水野越前守忠邦による天保改革の主眼は、徹底した奢侈取締りにあった。天保一三年の「御改革御趣意被二仰渡一候条々」(22)から、生活規制の一斑をうかがってみたい。
「野菜物等、季節至らざる内売買致すまじき旨、前々相触れ候趣これ有り候処、近来初物を好ミ候、増長いたし、殊更料理茶屋等ニて競合(きそいあ)い買求メ、高値の品調理いたし候段不埓(ふらち)の事ニ候、譬(たとえ)バ、きうり・茄子(なす)・いんげん・ささげの類もやし物と唱へ、雨障子(しょうじ)を掛け於て仕置き、或ハ室の内え炭団火ヲ用ひ養ひ立て、年中時候外れに売出し候段奢侈を導く基ニて、売出し候者共も不埓の至りニ候、以来もやし、初物と唱え候野菜物類決して作り出し申すまじき旨、在々えも相触れ候条其旨ヲ存ジ堅く売買致すまじく、尤(もっとも)、魚鳥の儀ハ自然の漁猟ニて売出し候ハ格別、人力を費し多分の失脚をかけ飼込み仕立置き、世上へ高価ニ売出し候儀ハ、吟味の上急度咎(とが)メ申し付くべく候、右の通り町触申し付け候間、御料ハ御代官、私領ハ領主・地頭より相触れべく候」
これは天保一三年四月一一日付け、老中水野忠邦より大目付へ下達されたもので、天保改革における典型的奢侈禁止令である。現在は極めて一般化している促成栽培の野菜物が、奢侈のもとであるとして厳禁されている。
御改革趣意書には、その他の禁令が細々と述べられている。神事・祭礼・虫送り・風祭り等の際、衣裳・道具をこしらえ、見物人を集め、芝居見物同様のことを催して金銀を費してはならない。このような渡世の者はもちろん、風儀の悪い旅商人や河原者などを村へ入れてはならない。今後は、遊芸・歌舞伎(かぶき)・浄瑠璃(じょうるり)など、芝居同様の人集めは固く禁ずる。このような内容が、るる述べてある。
天保の改革は、寛政の改革と似ている。寛政の改革も、倹約と文武の奨励を主軸としたもので、幕府閣僚の政治感覚は、おしなべて同程度のものであったことがわかる。むしろ諸藩の中で、産業開発などの具体策を打ち出し、成果を挙げているところが多かった。幕府の生活規制に即応して、舟木村八反目の地頭市岡氏からも下知書が下された。
一、百姓共は、耕作を第一とし、奢をはぶき、倹約・正直を旨とせよ。
一、百姓共の衣類は、元々木綿を用いることになっているが、近ごろ絹縮緬(ちりめん)類を着用する者があると聞く。これは固く停止する。
一、神事・祭礼・虫送り・風祭りなどと名付けて芝居同様の催をしたり、大ぎょうな酒宴などを開いてはならない。
一、冨士講・若者仲間などと称し、大勢で集ってはならない。
これらはしばしば停止されているものであるが、天保改革においては、為政者の姿勢を反映して、峻烈に取締られた。農民からいっさいの娯楽を奪い去り、農業専一に心掛けさせ、年貢収奪を全うすること以外は眼中になかった。要は、「百姓ハ百姓相応の行ひいたし候えば子細(しさい)これ無く候」と考えていたのである。
天保改革は、所々在々に至るまできびしい統制を加へてきたが、その割に徹底せず、水野忠邦の失脚とともに崩壊した。