立鳥・長富・徳増方面へ引水するため、泉谷地先の水門をいっぱいにしめておくと、泉谷では、「田畑え水いかり候て」水損を生ずる。水門を少しでも開いて、川へ水を落とすと、立鳥村方面に水が乗らなくなる。このように、同じ水が針ケ谷村泉谷の百姓には「悪水」であり、立鳥村外二か村にとっては「用水」であるという矛盾があった。江戸時代においては、有益な水を用水、害を及ぼす水または不要な水を悪水といった。針ケ谷村泉谷の豊かな水が、用水出入の原因となるとは皮肉なことである。正徳三年二月の、立鳥村の訴状(1)により、水論の論点を探ってみたい。
一、立鳥村は、古来より隣村針ケ谷村から用水を引いていた。その水路として、針ケ谷村の畑を掘り割ってあるので、代地を針ケ谷村に差出している。また、大雨時の悪水落としのため、水門を針ケ谷村地内に一か所、立鳥村地内に一か所設けてある。針ケ谷村地内の水門場所は、水底が浅くなり、幅も広くなって普請が困難になり、立鳥村への水も乗りにくくなったので、四〇年前両村で相談の上、水門を芝土手で築き留めた。それ以後は、立鳥村地内の水門一か所で悪水を川へ落として来た。
四年前の寅年(宝永七年)、針ケ谷村の三人の名主から、満水のとき水が貫(ぬ)けきれないので、先規のとおり針ケ谷村地内にも水門をつくるよう申入れがあった。そこで、去る辰年(正徳二年)三月、双方の名主が立合い、場所を見分したが、先に築き留めた場所では普請ができそうもないので、相談の上、水下へ三間程下げ、岩を掘抜いて水門をつくった。これで滞りなく悪水が貫けるようになったので、去る辰年四月六日より五月九日まで、相違なく用水を引いていた。
一、去る辰年五月九日、針ケ谷村で右の水門を切開いて、水を川へ落としてしまった。それを当方で見つけたので、水門を留めるよう申入れたが、針ケ谷村の甚右衛門・惣左衛門・八左衛門の三人が罷り出て申すには、名主共から申付けられて水番をしているので、水門を留めることはできないという返答であった。しかし、用水入用の季節であり、殊に先規により引いていた水を、今になって急におさえられるいわれはないので、水門を築き留め、立鳥村へ水を引き入れた。しかるところ、針ケ谷村では二町程水上へ、新規に手樋を掘って川へ水を落し捨ててしまい、立鳥村への用水がいっさい乗らなくなってしまった。早速・針ケ谷村名主方へ申入れたが聞き入れず争論となった。
一、そこへ、五郷組鴇谷村名主権右衛門・庄左衛門、初芝村名主徳兵衛、金谷村名主十右衛門の四人が扱いに立ち、新手樋の水口を埋め、立鳥村へ水が引けるよう話し合いがついた。用水入用の季節であったので、先ずはそのままで引水した。
一、しかし、水口だけを埋めたのでは、いつまた用水肝要の季節に水を落とし捨てられるかわからないので、新手樋を残らず埋め、以来出入がないという証文をくれるよう、五郷組の名主方へ申入れたが、それまでにすることはあるまい、として取り上げてくれず、一件は落着しなかった。
一、去る辰年八月一八日、針ケ谷村名主方より、去年三月つくった水門の場所が悪いので、四〇年以前の古水門跡に新たに水門をつくりなおすように、という申し入れがあった。右の古水門跡は、水底が浅く、幅も広くなっていて、その上水も乗りかねるので、双方立合い見分の上、水下へ三間程下げ土手を築いたものである。また、四年前の寅年、針ケ谷村から望んで悪水貫きの水門を掘ったときも、双方で見分し、古水門跡は普請がむずかしいという理由で、水下(みずしも)に三間程下げて岩を掘貫(ぬ)き、滞りなく水貫きをし、立鳥村へも引水したのである。
一、このように、「針ケ谷村望みの通り、立鳥村物入(ものいり)を以て水門二か所致し候処、又候(またぞろ)古水門跡、普請成りがたきニ相極(きま)り候場所え水門致し候様」にとの申入れは、何んとも心得難い旨返答したところ、同日、針ケ谷村では理不尽(りふじん)にも先年築き留めた古水門跡の芝土手を切り破り、川へ水を落としてしまったので、立鳥村へは用水がいっさいかからなくなり、田地が荒れ果て迷惑している。
右のとおり、無断で水門をはずし、新手樋を掘り、あまつさえ古水門跡に築きとめた土土手(つちどて)を切り破って水を落とされ、立鳥村大分の田地は仕付(しつ)けできず荒地となってしまった。どうか御詮議(ごせんぎ)の上、用水を相違なく引けるようにしてもらいたい。
以上が、立鳥村名主伝右衛門・又兵衛・平左衛門・善右衛門の連名で差出された訴状の概要である。この訴状は立鳥村のものであり、針ケ谷村の主張がわからぬので、そのまま受け取ることはできない。ただ、立鳥村へ水を引くために水門をしめると、針ケ谷村では田畑へ水がかかって迷惑であったことは事実であろう。
この一件は、裁許をまたず扱人(あつかいにん)が立って内済した。簡単な扱証文であるので全文を掲げてみる。
取替申扱証文之事(2)
上総国長柄郡立鳥・長富・徳増三ケ村と、同郡針ケ谷村用水出入(でいり)ニ付き、当巳ノ二月御評定所え御訴訟申上げ、此度双方召呼ばれ候ニ付き、江戸宿芝新銭座山村八郎右衛門、平川町壱丁目長門屋五兵衛、糀町(こうじまち)壱丁目上総屋次兵衛取扱い申したき旨中山出雲守様え御願い申し上げ候処、相済すべき儀ニ候ハヾ、取扱い候様ニと仰せ付けられ、これに依り四年以前寅ノ年相談を以て、古来致し置き候より弐間壱尺下ケ、水門の儀も弐ケ所ニ仕(つかまつ)り、大きサも先年の寸法の通り板ニて致し、水門え錠ヲかけ置き、満水仕り針ケ谷村田畑え水いかり候ハヾ、両村立合い水門をあけ悪水を落とし、田畑水損仕らざるようニ致し、長富・徳増両村えも立鳥村より針ケ谷村へ代地を出シ、用水引き来り候余り水を貰(もら)い候様ニ仕り、水届きかね候とて満水の節水門あけさせ申す間敷(まじ)き旨申さず、立鳥村の余り水を以て用水ニ仕り候と、右三人の者共立合い取扱い、内々ニて右の通り致し、和談相済み候上ハ、向後違論仕り間敷く候、後日のため取替え証文仍(よ)って件(くだん)の如し、
正徳三年巳四月 江戸平川町壱丁目 長門屋五兵衛
同 糀町壱丁目 上総屋次兵衛
同 芝新銭座 山村八郎右衛門
上総国長柄郡立鳥村 名主 伝右衛門
同 又兵衛
同 平左衛門
同 善右衛門
同国 針ケ谷村 名主 六郎兵衛
同 理兵衛
同 善兵衛
同国 長富村 名主 佐次兵衛
組頭 金右衛門
同国 徳増村 名主 五左衛門
組頭 助右衛門
同 権兵衛
上総国長柄郡立鳥・長富・徳増三ケ村と、同郡針ケ谷村用水出入(でいり)ニ付き、当巳ノ二月御評定所え御訴訟申上げ、此度双方召呼ばれ候ニ付き、江戸宿芝新銭座山村八郎右衛門、平川町壱丁目長門屋五兵衛、糀町(こうじまち)壱丁目上総屋次兵衛取扱い申したき旨中山出雲守様え御願い申し上げ候処、相済すべき儀ニ候ハヾ、取扱い候様ニと仰せ付けられ、これに依り四年以前寅ノ年相談を以て、古来致し置き候より弐間壱尺下ケ、水門の儀も弐ケ所ニ仕(つかまつ)り、大きサも先年の寸法の通り板ニて致し、水門え錠ヲかけ置き、満水仕り針ケ谷村田畑え水いかり候ハヾ、両村立合い水門をあけ悪水を落とし、田畑水損仕らざるようニ致し、長富・徳増両村えも立鳥村より針ケ谷村へ代地を出シ、用水引き来り候余り水を貰(もら)い候様ニ仕り、水届きかね候とて満水の節水門あけさせ申す間敷(まじ)き旨申さず、立鳥村の余り水を以て用水ニ仕り候と、右三人の者共立合い取扱い、内々ニて右の通り致し、和談相済み候上ハ、向後違論仕り間敷く候、後日のため取替え証文仍(よ)って件(くだん)の如し、
正徳三年巳四月 江戸平川町壱丁目 長門屋五兵衛
同 糀町壱丁目 上総屋次兵衛
同 芝新銭座 山村八郎右衛門
上総国長柄郡立鳥村 名主 伝右衛門
同 又兵衛
同 平左衛門
同 善右衛門
同国 針ケ谷村 名主 六郎兵衛
同 理兵衛
同 善兵衛
同国 長富村 名主 佐次兵衛
組頭 金右衛門
同国 徳増村 名主 五左衛門
組頭 助右衛門
同 権兵衛
針ケ谷村の主張する古水門跡への普請は退けられた。普請困難な場所へ水門をつくれというのは、針ケ谷村のいやがらせであろう。水門が水下へ二間一尺下げてつくられ、しかも、寸法は旧来どおりとすれば、立鳥村への水乗りが若干悪くなることは当然推察される。しかし、立鳥村への引水がどうやら可能となったのであり、満水の時双方立合いの下に水門をあけ水を捨てることも約束させ、両村の顔を立てている。なお、長富・徳増の二か村は、余り水をもらう程度で、水門の開閉については発言権がないようである。
ここに出てくる扱人は、江戸の町人である。訴訟に限らず、公用その他で出府するときは、各村とも定宿のようなものを決めてあった。その宿の主人が、江戸の地理や公事(くじ)に不馴れな村役人などを世話することは古くから行なわれていた。この三人の町人は、宿の主人か、または、評定所の前にずらりと並んでいた職業的公事扱人(くじあつかいにん)であろう。近郷の者の扱いでは、地縁・血縁・利害等がからむので、第三者的立場で江戸の町人が仲介するケースは間々みられるところである。
泉谷の水は、手樋(てび)と称する小水路により立鳥方面へ導かれていたが、今も水を落している立鳥と針ケ谷の境の、岩をくり抜いた排水孔は、宝永七年につくられたものであろう。
正徳三年の出入以後、用水に関する両村の関係は小康状態を保っていた。延享元年(一七四四)立鳥村では、針ケ谷村内の用水大締切の普請を、年間米二俵で、泉谷の六郎兵衛・忠兵衛・与兵衛・万右衛門の四人に請負わせている。
一、立鳥村用水、拙者村の内大〆伐(おおしめきり)壱ケ所普請の儀、給米として米弐俵宛ニて請取り申し候。年季の儀ハ、子ノ年(延享元年)より酉ノ年(宝暦三年)まで拾ケ年ニ相極め申し候。右用水の儀ハ三月苗代(なわしろ)時分より七月中まで水通シ申す筈、請取方、万一〆伐満水ニて伐(き)レ候ハヾ、早速仕留め、水通し申すべく候。其の為一札仍って件の如し。(3)
延享元子ノ年三月十五日
以上のように小康状態を保っていた両村関係も、天明三年(一七八三)に至り打破られた。針ケ谷村の者共が水門を破り、水を落としてしまったのである。この一件は、訴訟になる前に初芝村名主六左衛門、金谷村名主平左衛門、鴇谷村名主金兵衛、同村名主清蔵が扱いに出て内済した。泉谷御料名主八平、同組頭太郎兵衛の連印で、立鳥村三給役人中へ次のような詑状が一札入れられた。
一、私共村方の者共、当十八日、其の御村方水門を狼籍(ろうぜき)ニ打破り、其の所より咎(とが)ヲ得、不届(ふとどき)の至り、申訳ケ無く御座候。これに依り、向後右水門場所へ一切相障り仕らせ間敷(さわりつかまつらせまじく)候。後証の為一札件(くだん)の如し。
天明三卯六月 日
この件は、あっさりと解決している。しかし、水門を破るということは容易ならざることである。水門を締切られて田畑への冠水が甚だしかったのであろう。あるいは、御料(幕領)農民としてのおごりがあったのか、ともあれ、六月といえば用水肝要の季節である。立鳥村としては、解決を急いだ方が得策であった。一方、泉谷としても、悪くすると刑事事件となり、逮捕者も出しかねない事態と考え、あっさりと詑びを入れたものであろう。以後、両村の用水関係は、安定した状態が続いている。
この両村の水争いに、地頭や代官は少しも干渉していない。細分支配の村方で争論が起こると、必ず二人以上の領主と関係してくる。自領内の争いならば領主の調停も可能であるが、他領にまたがる争論は評定所へ出訴するか、第三者の中裁にまつ以外になかった。