寛政四年(一七九二)鴇谷村と立鳥村の間で水論が起こった。これは、刑部村神主刑部(ぎょうぶ)と五郷役人の扱いで内済している。
鴇谷村は、正徳年中の針ケ谷村と立鳥・長富・徳増三か村との水論の取替証文に名を連ねていない。そのとき、立鳥村の余り水を引く権利を得たのは、長富・徳増の二か村だけである。しかし、立鳥村と地続きの鴇谷原田の水田もまた、立鳥村の余り水を引いていたようである。
寛政四年の水論の経過は不明である。内済証文(4)には、「先年より水縁もこれ有り候処、余り水の儀ハ長留村同様ニ遣し申すべく候」として、次のように取りきめている。
一、水路の水通りが悪くなったら、立鳥村で水筋を正す。
一、脇方に落水するようなことがあったら、鴇谷村から人足を出し、水が滞りなく流れるように普請する。
一、その他、これまでどおり、堰場・水門普請・手樋浚(てびらさら)い等の節は、長留村同様に人足・入用金を差出す。
これで見ると、従前から鴇谷村も引水していたことは明らかである。しかし、正式な証文もなく、慣習として用水を利用していたものであろう。ここで、諸普請のときの人足・費用などの負担が明確にされた。