この両村の間でも、用水に関する証文が何回となく交換されている。
長富村が立鳥村の余り水を引く権利は、正徳年中の証文に明示されているので、水利権そのものについて問題はない。論点は、その引き方である。文政一〇(一八二七)四月の両村取替証文(5)に次のようなものがある。
一、立鳥村から長富村への水通りが悪いので、長富村の無心により立鳥村田地一九四坪の場所へ新手樋を掘り、長富村境まで水を通した。
一、その田地の年貢として、長富村より米二俵二斗を確かに受取った。
一、右の水路は、稲の植付け時ともなれば、稲を植付ける定めである。
一、その節、水の引き方について、長富村で不行儀なこと、または、作物を損ずるようなことがあれば、長富村に断りなく手樋をつぶす。
針ケ谷村に対しては、水末(みずすえ)村である立鳥村も、長富村に対しては水元(みずもと)村として極めて高圧的な態度をとっている。水路として貸した一九四坪の水田から年貢米二俵二斗をとり、その上、そこにも稲を植えつけている。二重の収得である。更に、気に入らぬことがあれば、すぐに手樋をつぶすという有様で、水元村の権利は極めて強かった。
安政三年(一八五六)二月にも、前述のものと全く同じ内容の証文が、長富村組頭蔵之助・同芳松・名主長左衛門の連印で、立鳥村役人中へ差出されている。この証文は、時々更新されていたようである。明治九年(一八七六)にも一札が入れられているが、それには、「一番水立鳥村、二番水鴇谷村、三番水長富村と取極め申し候」と、水利権の順位を明示してある。このような用水の利用形態は、動力揚水機が一般化するまで続く。石油発動機と揚水ポンプが郷土に普及しはじめたのは、昭和一〇年台からで、一般化したのは昭和二〇年以降である。