裁判の期間

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 文政九年(一八二六)に争いが起こった。地元での掛合いは、何回となく繰返えされたと思うが、舟木村から出訴し、訴答(そとう)一同が江戸へ出たのは一一月九日、着届(ちゃくとどけ)を評定所へ差出したのが翌一〇日である。この間に、それぞれの地頭所へも着届を出し、第一回の吟味は、一三日、評定所において三奉行立合いの上、掛り曽我豊後守が直接取調べに当たった。
 同年一一月二七日、訴訟人舟木村名主治兵衛は、持病の癪(しゃく)を煩い吟味が中断した。
 翌文政一〇年三月七日、再び訴答一同出府し、四月五日まで吟味が続けられた。済口証文が取りかわされたのは六月二日であるから、中三か月は帰村していたというものの、七か月間も裁判、あるいは和談のための掛合いが続けられていたことになる。往復の不便、多大の出費、証拠の提出、証人の喚問等、江戸出訴が容易ならざるものであったことをまざまざと見せつけられるものである。